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私の「京都慕情」

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  留年や転学部を重ね、ひと様の倍近く京都の大学に籍を置いていた(だけの?)学生時代。1970年前後の、あの「学園闘争」の時代でもあった。    その学生時代によく出入りしていた「喫茶店」をグーグルマップのストリートビューで訪ねてみた。  苦い思い出もいろいろある街だが、もうあれから50年以上の歳月が流れた今では、苦さよりも「懐かしさ」のほうが先立つようだ。     しかし、その場所を訪ね当ててみると、当たり前のことだろうが、すでに閉店していたり、閉店予定となっていたりしている。それが時代の変遷というものか。    一つ目の喫茶店は、「学士堂」(京都市左京区田中門前町)。    京都の北部を東西に走る今出川通(いまでがわどおり)と、南北に走る東大路通(ひがしおおじどおり)が交わる「百万遍(ひゃくまんべん)交差点」(写真1↓)の北東角近くで営業していた。 (以下、各写真ともクリックすると写真が拡大されるかと思います。)            写真1 百万遍交差点     百万遍は、京都大学(以下、「京大」と略)の本部キャンパス北西角にある広い交差点の名称だ。すぐ近くにある「知恩寺」の念仏百万遍に由来する名らしい。    写真1の中央の灰色の建物は京大の総合研究棟のひとつ。そして正面奥に続く道路が今出川通。まっすぐ行けば銀閣寺に行き着く。    写真2(↓)の左端、入り口に「TEA ROOM」の表示(見えにくいだろうが)のある古びた2階建ての建物が、かつての学士堂だ。写真右端には百万遍の交差点が少し見えている。                         写真2 学士堂  この店はもう営業していない。今の学生たちは、あまり喫茶店には行かなくなったのだろうか。あるいは、スターバックスとか、ドトールコーヒーとかの小綺麗なチェーン店のほうを好むのだろうか。    学士堂には、やさしいマスターがいて、ささくれだった学生たち(私を含む)も笑顔で迎えてくれ、一杯一杯、丁寧にコーヒーを淹れてくれた。あのマスターの姿勢から学んだことは、大学で学んだ知識のあれこれよりも大きかったかもしれない。    二つ目の喫茶店は、「京大北門前カフェ 進々堂」(京都市左京区北白川追分町)。    店は、百万遍の交差点から今出川通沿いにす...

リトル東京、レストラン「スエヒロ」

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今からおよそ50年前(1970年代後半)、私が米国ロサンゼルスで放浪生活を送っていた時期、皿洗い兼ウェイターとして働いていた、リトル東京(以下、「小東京」)の日本食レストラン「スエヒロ」(末広)が、小東京から数ブロック離れた場所に移転した(せざるをえなくなった)ということを、たまたま下の動画を見て知った。 私がそこで働いていた頃、という以上に、お世話になっていた頃、オーナー兼ウェイトレスの「順子」さん(上の「健司」さんの母)には本当によくしてもらった。「スエヒロ」は下の写真のように、2nd Streetに面して建つ「アランホテル」の一階で営業していた。駐車している車の後ろに「スエヒロ」の看板が見える。その後、小東京の1st Streetに移り、さらに今回、小東京の外への移転を余儀なくされたわけである。 この写真には映っていないが、アランホテルの右隣(西側)には3階建ての小さなホテル「まさごホテル」があり、私はそこで暮らしていた。アランホテルもまさごホテルも、「ホテル」という名が入ってはいるが、実質的には、そこで長期にわたって暮らす人向けの「安アパート」であった。まさごホテルのほうは日系人や私のような日本人旅行者(放浪者)が主に居住していたが、アランホテルのほうは黒人も多く住んでいた。 ある日、まさごホテルのバックヤードで洗濯していると、隣りのアランホテルの非常階段に座ってハーモニカでブルースを奏でる黒人のお兄さんがいて、拍手を送るとウィンクで応えてくれたことを思い出す。 グーグルのストリートビューで見ると(↓)、現在は、アランホテルも、まさごホテルもなくなっている。写真正面、奥へと続く通り(2nd Street)の左側(南側)に、かつてふたつの「安ホテル」が並んであった。その場所には今、都市「再開発」事業によるものなのか、小綺麗な集合住宅が建ち並んでいる。かつて「安ホテル暮らし」をしていた人たちに「行き先」はあったのだろうか。いろいろ助けてもらった人たちの顔が思い浮かぶ。 小東京のすぐ南側には、「スキッドロウ(skid row)と呼ばれる、路上生活者たちが多数暮らしている地域がある。アランホテルやまさごホテルの元住民のなかにも、そ...

忘れえぬ映画館(2)「京一会館」

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  前回取り上げた「 祇園会館 」は京都の中心部(繁華街)にあった大きな映画館だが、今回取り上げる「京一(きょういち)会館」は、いささか場末感も漂う、街はずれの小さな映画館だった。庶民的な市場の階段を上った二階にあった(↓)。 場所は、左京区一乗寺。学生向けの下宿やアパートが多くあったところだ。だから主だった客層は、当然「学生さん」たちとなる。叡電(えいでん、「叡山電鉄」)の一乗寺駅からすぐなので、この電車を利用して、通称 「 鴨川デルタ」横の、始発駅「出町柳」方面から来る観客も多かった。   映画3本立てで、300円~500円くらいの格安の入場料だったかと記憶する。ロードショウ館ではないが、そのぶん、名画からヤクザ映画まで、見逃していた映画を格安料金で観ることができるのもありがたかった。また、週末にはオールナイトの上映もあった。高倉健さん主演の、『 日本侠客伝 』や『 網走番外地 』シリーズをオールナイトで観たこともあった。そういえば、映画の上映中、健さんが 殴り込みに向かう 場面などでは、「健さん!」とか、「待ってました!」とかいう掛け声が、客席のそこかしこから上がったものだ。映画を観終わり、東の空が白みはじめた街を、映画の余韻に浸りながら「オレももう少し頑張ってみるか」と自分に言い聞かせ、下宿まで自転車をこいで帰った、あの朝が思い出される。 しかし、この映画館も1988年に閉館していたということを、つい最近知った。 その「最後の日」を記録した映像がYouTubeに出ていた(↓)。映画の上映が終わると、観客たちから盛大な拍手が送られる。そして支配人から、感謝の気持ちを伝える「最後の挨拶」がある(聞き取りにくいが…)。その場に立ち会うことはできなかったが、YouTubeの映像に向かって、私も小さな拍手を送った。「京一会館さん、本当にありがとうございました!」  

忘れえぬ映画館(1)「祇園会館」

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グーグル・ストリートビューで、以前訪れたところを「散歩」してみることが、ときどきある。 いまから50年以上も前のこと(1970年前後)、学生時代に親しんだ、京都のあの場所、この場所をたどってみたりもしたが、いずれの場所もその当時の面影はほとんどない。その歳月を思えば、それも当然のことだろう。 それでも、かつての「残り香」を求めて、パソコンのマウスを動かし続けている自分が、どこかいじらしい。  留年や転学部を重ね、人様の倍近く、大学に籍だけはおいていた(当時、国立大の授業料は月1000円、バイトすれば何とか支払えた)。授業にはほとんど出なかったが、バイトのない日は、街のそこかしこにある映画館によく足を運んでいた。  大学で所属したサークルも「映画部」(いわゆる「映研」)。中学生のころに映画の面白さに目覚め、高校のころには背伸びして「アートシアター」系の映画館にも出入りするようになっていた。それで、大学入学後、迷わず映画部に入ったわけだった。  さて、映画部に入ったといっても、私の場合、映画を自主制作することもなく(才能もなく)、あちこちの映画館を回って、学割で映画を観てただ楽しんでいただけだったのだが…。 また、映画サークルの活動資金をつくるため、大学の古びた講堂で(学生が自主管理していた)、映画の上映会などもときどき催していた。 その当時、映画はまだフィルムの時代。先輩から35ミリ映写機の扱いかたを教えてもらい、何とか「映写技師」の真似事くらいはできるようになった。配給会社から京都駅に届いた、缶に入ったフィルム(↓)をつめた包みを受け取り、それを抱えて市電に乗って大学まで運んだものだ。宅急便などない時代の話である。 映画フィルムのひと巻き(リール、reel)は、大体15分から20分くらい。だから2時間ほどの映画なら、フィルム巻数は全部で6~8巻ほどになる。観客席の後ろ、すこし高くなった映写室には映写機(↓)が2台並んで設置されており、二人一組で映写を担当する。フィルムひと巻きの映写が終わるタイミングで(スクリーンの画面右上に小さな点が出てくる)、隣の映写機にセットしておいた次のリールを回し始める。これを交互に繰り返しながら、映画全体を切れ目なくつないでいくのである。 さて、ここからが本題なのだが、よく出入りしてい...

ありがとう、ヒデマロさん!

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憂歌団のマネージャーをしていた、ヒデマロさんが、昨年(2024年)1月にお亡くなりになっていたことをつい最近知った。 1952年生まれとのことだから、72歳での死だったのか。 (↓ ヒデマロさんの追悼ライブ 2024年5月21日 at 梅田TRAD:旧バナナホール) 彼と親しく交流したわけではないが、あるイベントで憂歌団のボーカル、木村充揮(あつき)さんの出演をお願いしたことをきっかけに、その後の音楽イベントでもお世話になり、また、扇町公園近くのビルの一室にあった音楽事務所で談笑したり、あつかましくも京都のご自宅でご馳走にあずかったことまであった。いい思い出しかない。 1970年代、京都のライブハウス「拾得(じっとく)」「磔磔(たくたく)」や京大西部講堂などを舞台に展開された、ロック、ブルースのムーブメントを、プロデューサーの立場から牽引したお一人だった。無念なことである。 YouTubeを見てみると、ヒデマロさんが歌をうたっている映像があった。ご自身で楽曲もつくり、歌までうたっていたとは驚きだった。 そのなかに、阪急東通り商店街(商店街といっても実質は飲食店街)を舞台にした「黄昏 東通り」という曲があった(↓)。 1990年前後のころだったか、東通り商店街の一番東の端にあるライブハウス「バナナホール」でライブを彼と一緒に楽しんだ後、近所の立ち飲みバーに連れて行ってもらい、遅くまで楽しくすごした夜のことは今も忘れることはない。もうそのバーはなくなっているみたいだけど…。 ヒデマロさん、そっちの世でも「もう一杯!」って、今夜も楽しんでいますか?

LAが燃えている。

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1970 年代の後半 、放浪生活をしていた私 (20代後半) が暮らした街、ロサンゼルス。 いま、その街が燃えている。 私が住んでいたのは、山火事が起きている郊外ではなく、ロサンゼルス市の中心部(ダウンタウン)だった。 その 中心部には高層ビルが並び立つビジネス街もあるが、その外れにある日本人町「リトルトウキョウ」の 、月極60ドルくらい(当時)の安アパートで暮らしていた 。 路上生活者たちの多くいる 「 スキッドロウ (skid row)」とよばれる 地域に 隣接する ところでもある 。 現在、 ダウンタウンは延焼してはいないようだが、 下の 映像を見ると、周辺部から流れ込む煙に 覆われて 、太陽が出ているはずなのに、ダウンタウン全体はうす 暗い (ロサンゼルス市庁舎上階から撮影されたものと思われる) 。 降灰もかなり深刻なのではないかと思われる。   上の映像の「 35秒」くらいからリトルトウキョウの街並みが映し出される。 50秒過ぎから、二つの白く、背の高い建物が見えてくるが、左は「カジマビル」(1967年竣工、鹿島建設)、右 は「 Double Tree by Hilton Hotel」(旧ニューオータニホテルLA、1977年オープン)だ。そして、その二つの建物にはさまれたところ、映像最下部に見える通り(First Street)に面して三角形の形状の三階建ての小さな建物が見えると思う。じつは、私はこの2階の角部屋に住んでいたのだ。この街で知り合った日系3世T君の叔母さんもそこで一人暮らしをして いて、いろいろと助けてもらった。 報道は、もっぱら「セレブ」たちが多く住む地域の火災被害に注目しているようだが、ダウンタウンに暮らす人びと(路上生活者を含む)の健康や暮らしも気がかりだ。どうか彼ら、彼女らのことも忘れないでほしい。 そして、今日、1月17日は、「阪神淡路大震災」から30年にあたる日。 あの光景を忘れることはない。 お時間のあるかたは、 こちら (「ソウルフラワーみちのく旅団・被災地出前ライブ」 )もご覧になってみてはいかがでしょう。

追悼・火野正平さん

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昨年の今頃(23年11月)、「同輩のミュージシャンたちがつぎつぎと亡くなっていく」という 記事 を書いたのだが、今年もつい先日、俳優の火野正平さんの訃報に接した。 俳優としての火野正平さんについては、出演映画もテレビもほとんど観なかったからよくわからないのだが、NHKBSでずっと続いていた「日本縦断こころ旅」(↓)は、退職後よく観ていた。自転車旅の旅先で出会う人々とのやりとりにふと顔をのぞかせる正平さんの人柄や、「こころの風景」を投稿した人たちの思いに寄り添う姿にもふれ、おのれをかえりみること一再ならずであった。正平さんの生年は私と同じ、1949年。享年75。無念なことである。 上の動画の最後のほうに、長野県の、ある畑の中に立つ「一本のクルミの木」のまえで視聴者の手紙を読む場面が出てくる。その場面を観ながら、50年前、大学を出たあと、長野県の牧場で住み込みのバイトぐらしをしていたとき、毎日牛を追いながらよく見ていた、牧草地に凛と立つ「 一本のヤマナシの木 」を思い出した。まるで八ヶ岳連峰に対峙して立っているように見える、そのヤマナシノの木の孤高のたたずまいが、定職につかない(つけない)寄る辺ない私を、慰め、励ましてくれたものだった。「お前は、お前の道を行けばいい」と…。思えばあれは、私の「こころの風景」だったのかもしれない。 下の、正平さんの歌唱も、こころに響いてくるなあ。合掌。

「戦争が生んだ子どもたち」

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 YouTubeで、大阪の朝日放送が数年前に制作した『戦争が生んだ子どもたち』というドキュメンタリー番組(↓)を観た。 タイトルにあるように、日本の敗戦後、日本に進駐してきた米軍兵士と日本人女性のあいだに生まれた子どもたちの物語(戦後史)だ。 彼ら、彼女らの話は、また、今なおこの社会がかかえる問題をあぶりだしている。決して「終わった話」ではない。番組では、三人の、いわゆる「GIベビー」の足跡が紹介されるが、一番初めに出てくる「青木ロバート」さんの部分だけでも(約20分)、よければ、観ていただきたいと思う。 青木さんの父は黒人兵、母は基地関係の仕事をしていたひとだ。父の帰国後、養護施設にあずけられ、苦難の道を生きた彼の言葉は重く響く。 そして、私が小学生だったとき、一学年上にいた、青木さんと同じく、黒人兵とのあいだに生まれたであろう、女生徒のことが思い出された。背が高く、足の長い彼女は、運動会ではひときわ目立っていた(少年の目には、まぶしく見えた)。学年もちがい、彼女がどんな学校生活を送っていたのか、当時はよくはわからなかったが、青木さんの話を聞きながら、あの時代を生きた彼女がかかえていたであろう思いの一端に触れえたように思った。 彼女が、いま日本のどこで暮らしているのか、それとも米国で暮らしているのかはわからないが、どこであれ、幸せな日々を送っていることを願った。 『戦争が生んだ子どもたち』

学徒兵「木村久夫」の遺書

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  『真実の「わだつみ」 学徒兵木村久夫の遺書』という本(東京新聞、2014年)を読んだ。本の帯には次のように記されている。 「戦没学徒の遺稿を集めた『きけ わだつみのこえ』の中で特に重要とされる京大生・木村久夫の遺稿。 しかし、『わだつみ』に収録された遺書は、二つの遺書を合わせて大幅に編集されていた。知られざる「もう一通の遺書」を発掘し、改変を明らかにし ……その二通の遺書全文を掲載し……木村の人生とその最期の思い、木村が戦犯に問われた事件の真実に迫る。」    木村久夫は、 1918年、大阪府吹田市生まれ。府立豊中中学(現豊中高校)、旧制高知高校(現高知大学)を経て、1942年4月、京都帝国大学経済学部に入学。43年に出征、インド洋のカーニコバル島に駐屯し、住民対策に当たる。終戦間際の45年7月、島であった「スパイ」事件の取り調べを命じられ、その時に拷問により死者を出したとしてシンガポールの戦犯裁判で死刑判決を受ける。46年5月23日、 チャンギ刑務所で処刑執行。(同書より)    木村は、死刑執行のひと月前、愛読書だった田辺元『哲学通論』を手に入れ、むさぼるように読み、そして、その本の余白に、死をまえにした自らの思いを書き綴った。ほんの一部だが、以下に引用する。   「私は生きるべく、私の身の潔白を証すべくあらゆる手段を尽くした。私は上級者たる将校連より法廷のおける真実の陳述をなすことを厳禁され、それがため、(住民拷問の)命令者たる上級将校が懲役、私が死刑の判決を下された。これは明らかに不合理である。 ……  もしそれ(木村の陳述)が取り上げられたならば、数人の大佐、中佐や、数人の尉官たちが死刑を宣告されるであろうが、それが真実である以上当然であり、また彼らの死をもって、この私が救われるとするならば、国家的見地から見て私の生のほうが数倍有益であることを確信したからである。  美辞麗句ではあるが内容の全くない、精神的とか称する言語を吐きながら、内面においては軍人景気に追従し、物欲、名誉欲、虚栄以外には何ものでもない、われわれ軍人が過去においてなしてきたと同様、仮に将来において生きるも何ら国家に有益なことはなし得ないこと明白なることを確信するのである。 ……  彼(上級将校)が常々大言壮語して止まなかった、忠義、犠牲的精神、そ...

「戦争は知らない」

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今年も、 8月15日に、 全国戦没者追悼式が日本武道館でおこなわれた。 毎年、その報道に触れるたびに、首相が読み上げる「式辞」の、ある決まった文言が気になるのだ。 その文言とは …。   「先の大戦では、 300万余の同胞の命が失われました。  祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦場に斃れた方々 …(略)  今、すべての御霊の御前にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。  今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い命と、苦難の歴史の上に築かれたものであること を、私たちは片時とも忘れません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念を捧げます。 ……」    「 300万余の同胞の命が失われました」…「同胞」とあるが、そこに「帝国」の一部にされた朝鮮、台湾出身の兵士・軍属は入っているのか、ということは、いまは問うまい。  しかし、毎年繰り返される「今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い命と、苦難の歴史の上に築かれたものである …」という文言が、私にはまったくわからないのだ。  食糧や弾薬の補給も絶たれ、いや、その計画もないまま強行された愚かな作戦のため、送りこまれた戦場で、多くの兵士らは、「祖国」(政府・軍部)をうらみながら、あるいは病死し、あるいは餓死したのである。その数は、 230万人を超える戦死者全体の半数以上を占める、というではないか。  かれらの「尊い命」は、無責任で無謀な作戦を立案し強行した「祖国」(政府・軍)によって奪われたのだ( 「特攻」作戦を含め てよい)。国家の戦争責任とは、対戦国や占領地(の人びと)にたいしてはもちろん、自国民にたいしても重くある。だから、戦没者に対し「衷心より、敬意と感謝の念を捧げます」という決まり文句は、毎年、聞いてあきれるのだ。そんな寝言をいうまえに、国家(政府)はまずもって、おのが過誤を反省し、その決意の表明として、自国民か他国民かを問わず、死者たちにたいして頭を垂れるのが、ものの順序というものだろう。  しつこいようだが、自分たちは安全な場所にいて無謀な戦争計画を立案し、作戦を強行した連中(その 多くは戦後も生き延びた)と、前線で心ならずも、いや、国を恨みながら斃れた「戦没者」たちとを同列におくことは、ゴマカシだ。  そしてまた、そのような戦争「指導者」たちの暴走(犯罪)を許し...

井上俊夫『初めて人を殺す 老日本兵の戦争論』

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今回も、前回と同じく、戦争体験者が書いた本の「あとがき」の一節を引用したい。 今回、取り上げるの は、詩人の井上俊夫さん( 1922ー2008)の著書、『 初めて人を殺す 老日本兵の戦争論』 (岩波現代文庫、2005年刊)。 その本のカバー折り返し部に記されている、本の紹介コピーをまず引用してみる。 「中国の戦線で、捕虜の刺殺訓練をさせられた著者。以来六十余年、戦死した友の眠る故郷の墓地で、八月十五日の靖国神社で、半世紀近くたって参加した戦友会で、自身の戦争体験や、軍隊、戦争そのものの正体を問い、老日本兵は、歩き、考え、書く。『お前は中国でいったい何をしたのか』、終わらない問いを抱え記したエッセイ集。」   では、この本の「あとがきに代えて」の一節を以下に引用する。   「 ……若者から『そもそも(戦争に赴いた)あんたがたに戦争に反対する資格があるのかよ』と言われたら私には一言もないのである。先に私は日本の近現代史をきっちりと学んで、確固とした歴史認識と反戦平和の論理を構築していないと、たやすく侵略戦争の尖兵にされるといった偉そうなことを書いた。しかし、天に唾するとはこのことである。  いくら国家の強権が背後にあったとはいえ、いくら幼少の頃から皇国史観と軍国主義による徹底した教育を受けていたとはいえ、たやすく兵士となり、たやすく戦線に赴き、侵略戦争の尖兵として働いてきた私には、もともと戦争に反対する資格がないのだ。十日の菊という言葉(時機に遅れて役立たないこと)があるけれど、半世紀以上もの時間が流れてしまった今頃になって、殊勝顔で反戦平和を唱えたところでなんにもならないのではないか。  それよりも中国兵捕虜の虐殺に加担したおのが罪責を認め、ひたすら反省し、謝罪し、沈黙を守るべきではないのか、といった思いにつきまとわれることしばしばである。  しかし一方では、おのが若き日に犯したのと同じ過ちを、これからの若い人たちに繰り返させないために、恥多きおのが従軍体験をあからさまに語るべきであるという考えも起きてくるのだ。  ……  戦後六十年になんなんとする長い年月を続いている(ママ)日本の平和。だがこの平和はとても十点満点の平和とは言えない。悪いところ、危ないところがいっぱいある。けれどもどんなに「悪い平和」でも、またぞろ政府が唱えるかも知れない「善い戦争...

飯田進『地獄の日本兵 ニューギニア戦線の真相』

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戦争体験者が次々とこの世を去っている。 1945年に20歳だった若者も、お元気なら、現在、100歳くらいである。 体験者が亡くなり、戦争の実相が見えにくくなると、その実相を知らない者たちが、兵士たちが「大義を尽くした」だの、「お国のために命を捧げた」だのと、おのれに都合のよい「戦争像」を捏造しかねない。いや、「特攻」の美化をはじめ、それはとっくに始まっている。 だから、戦争体験者(兵士だけでなく一般市民も)の話に耳を傾け、そこから何かを学びとる姿勢が、これまで以上に、大切になっていると、私は思う。世界各地で戦争が残忍なまでに露呈してきている現在、ほんとうに戦争(武力行使)の実相をいま一度見つめなければならないだろう。   亡父( 1915年生まれ)は、徴兵検査後、そのまま中国戦線におもむいた(送られた)が、みずからの戦争体験について語ることはなかった。私も、それについてたずねることは憚られ、具体的な話は何も聞いていない。ただ、私が学生だった頃(1970年前後)、何かの拍子に、私が「社会を変革するためには、革命戦争が必要となる」と言うと、父から「何を馬鹿なことを言うか!」と激しく叱られたことがあった。いつも穏やかだった父から、叱られたことは、後にも先にも、このときだけだった。それくらい「戦争」体験者として、父はどんな名目であれ「戦争」を忌み嫌っていたのだと、あとから思ってみたのだった。私も、馬鹿なことを言ったものだと、のちに深く反省した。   そんなこともあって、その後、戦争体験者たちの手記(体験記)を読んでみるようになった。中国大陸、ビルマ、フィリピン、インドネシア、ガダルカナル、ニューギニア …そして、シベリヤのラーゲリ。 今回は、手元にある手記のひとつ、飯田進『地獄の日本兵 ニューギニア戦線の真相』( 2008年、新潮新書)から、その末尾におかれた「おわりに」の一節を以下に引用してみたい。引用にどどめるのは、飯田さんの言葉の前では、どんな言葉も「きれいごと」になりそうだからである。   飯田進さんのプロフィールを本からそのまま引いておくと …。 「一九二三(大正十二)年京都府生まれ。昭和十八年二月、海軍民政府職員としてニューギニア島へ上陸。終戦後、 BC級戦犯として重労働二十年の刑を受ける。昭和二十五年スガモ・プリズンに送還。現在、社...

永井荷風『濹東奇譚』(3)

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永井荷風の日記『断腸亭日乗』に、三ノ輪(みのわ)の浄閑寺(じょうかんじ、現・荒川区南千住)を訪れて、近くの吉原遊郭で亡くなった遊女らの墓に香華を手向けたという記事が見える( 1937年6月22日)。 ところで、浄閑寺(浄土宗)と吉原遊郭との関係については、寺のホームページに次のような説明が出ている。 「浄閑寺は安政 2年(1855)の大地震の際に(犠牲となった)たくさんの新吉原の遊女が投げ込むように葬られたことから「投込(なげこみ)寺」と呼ばれるようになった。花又花酔の川柳に、「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれ、新吉原総霊塔が建立された。……遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、作家永井荷風はしばしば当寺を訪れている。「今の世のわかき人々」にはじまる荷風の詩碑は、このような縁でここに建てられたものである。」 (↓ 新吉原総霊塔… 浄閑寺ホームページより)   話をもとに戻せば、浄閑寺を訪れた荷風は『日乗』に次のように書き記している。 「今日の朝三十年ぶりにて浄閑寺を訪(と)ひし時ほど心嬉しき事はなかりき。近隣のさまは変りたれど寺の門と堂宇との震災(関東大震災)に焼けざりしはかさねがさね嬉しきかぎりなり。余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はば、この浄閑寺の塋域(墓地)娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。石の高さは五尺を超ゆべからず。名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし。」 荷風の死後、墓はこの浄閑寺には建てられなかったが(父の墓のある雑司ヶ谷墓地に建てられた)、「吉原」であれ、「玉の井」であれ、「苦界」に生きる/生きた人びとに思いを致すという荷風の姿勢は一貫していた。 その姿勢は、たとえば、荷風の「寺じまの記」( 1936年)という随筆にある、「玉の井」の女との次のようなやりとりにもあらわれているだろう。 「 …(玉の井には)もう長くいるのか。」 「ここはこの春から。」 「じゃ、その前はどこにいた。」 「亀戸(かめいど、現・江東区)にいたんだけど、母(かあ)さんが病気で、お金がいるからね。こっちへ変った。」 「どの位借りているんだ。」 「千円で四年だよ。」(当時の「千円」は、現在の、およそ 2~3百万円に相当) 「これから四年かい。大変だな。」 「もう一人の人なんか、もっと長くいるよ。」 「そうかい。」   ここで荷風は...

永井荷風『濹東奇譚』(2)

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  詩人の金子光晴 は、日本の一般大衆について、「 国民大衆は、多分に依存的な考えしか持っていないで、日本の軍事力が、現状を打開し、活路を見出してくれることが、一番切実に期待されていたもののようだった。 ……(軍国化に反対する少数者に対して)圧力をもった大衆は、軍人より輪をかけて、いやなものになっていった。そして終戦後のいまも、そのことにはすこしも変りがないように思われてならない。」( 『詩人 金子光晴自伝』) と書いたが、この金子の思いはまた、荷風のそれでもあった。   「現代日本の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なき事の三事なり。政党の腐敗も軍人の暴行もこれを要するに一般の国民の自覚に乏しきに起因するなり。個人の覚醒せざるがために起ることなり。然りしかうして個人の覚醒は将来においてもこれは到底望むべからざる事なるべし」(永井荷風『断腸亭日乗』、 1936年2月14日) この一節を書き写しながら、およそ 90年前にすでに荷風は、日本社会の「いま」を言い当てていたのではないか、そして、日本社会はその宿痾からいまだ抜け出せていないのではないかと思われもして、重たい気持ちにもなる。現在みられる「政党の腐敗」も、憲法を無視した「新しい戦前」も、みな「国民の自覚に乏しきに起因する」ことなのだ。問われているのは、「一般の国民」の一人である、この私なのだ。 最後に、もう一つ引用して、本記事を結びたい。 荷風は、『濹東綺譚』の末尾におかれた「作後贅言」で、次のように書いている。 「わたくしは元来その習癖よりして党を結び群をなし、その威を借りて事をなすことを欲しない。むしろこれを怯となして排(しりぞ)けている。 ……わたくしは芸林(文芸)に遊ぶものの往々社を結び党を立てて、己に与(くみ)するを揚げ与せざるを抑えようとするものを見て、これを怯となり、陋となるのである。……  鴻雁は空を行く時、列をつくっておのれを護ることに努めているが、鶯は幽谷を出でて喬木に遷(うつ)らんとする時、群をなさず列をもつくらない。しかもなお鴻雁は猟者の砲火を逃るることができないではないか。結社は必ずしも身を守る道とは言えない。」   荷風は「 党を結び群をな」すな、と言ってはいるが、 「単独者であれ」と言っているのではないだろう。たとえ「鴻雁」の群れのなかにあったと...

永井荷風『濹東綺譚』(1)

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作家・永井荷風( 1879ー1959)は、前回取り上げた金子光晴より15歳ほど年上になる。 その荷風に、小説『濹東綺譚』( 1937年)がある。「濹」は「墨田川」のことで、「濹東」、つまり墨田川の東、向島にあった私娼窟「玉の井」(旧・向島区寺島町、現・墨田区東向島)を舞台にした物語である。 私が初めて「玉の井」を知ったのは、滝田ゆうの漫画『寺島町奇譚』によってであった (↓ 入り組んだ路地に「銘酒屋」が軒を連ねている) 。   その作品は、私が学生であった 1960年代末、『ガロ』という漫画雑誌に連載されていた。戦争の時代を背景に、主人公の少年キヨシの目をとおして、色街に生きる人々の日常が哀歓こもごも描かれていた。そこがどんなところだったのか、その残り香に触れてみたいと思って、東京に出かけた折に、旧「玉の井」まで足を運び、その一帯を歩いてみたこともあった(上野から京成電車に乗って、「フーテンの寅さん」の「柴又」も同じ日に訪ねたように記憶するのだが…)。   荷風の『濹東綺譚』を読んだのは、旧玉の井を歩いてからしばらく後のことになる。滝田ゆうは、玉の井をその内側で生きた人だが、その滝田も、「外の人」とはいえ「玉の井」を愛した荷風に親近感をいだき、自作に同じく「奇譚」の二文字を入れたのだろうかとも思った。 50年前、20歳そこそこの私が『濹東綺譚』(岩波文庫)をどんなふうに読んだのか、よくは覚えていないが、木村荘八の挿画には惹かれるものがあった。 (↓ 驟雨のなか、「いきなり後方(うしろ)から、「旦那、そこまで入れていってよ。」といいさま、傘の下に真白な首を突込んだ女がある。」 玉の井の女「お雪」との出会いの場面。 画・木村荘八 )   今回改めて読み返してみて、小説の主人公(作家・大江匡)に託した荷風の姿勢が、作品の端々から伝わってきた。それは、金子光晴の場合と同じく、時代と社会に流されず、己を貫いて生きる身構えのようなものだ。心に留まった個所を少し引用してみたい。   「公明なる社会の欺瞞的活動に対する義憤は、彼(主人公)をして最初から不正暗黒として知られた他の一方に馳せ赴かしめた唯一の力であった。つまり彼は真白だと称する壁の上に汚い種々(さまざま)な汚点(しみ)を見出すよりも、投捨てられた襤褸(らんる、ボロ着)の片(きれ)にも...

『詩人 金子光晴自伝』

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日常の動作もままならなかった一年前と比べれば膝の調子もかなりよくなってきて、ようやく庭の草取りもできるようになった。ただそのまましゃがむのはまだきついので、草取り用のイスに座って作業をした。3時間近く、かがんだ姿勢で作業したから腰がすこし痛くはなったが、作業がおわったあとの「達成感」のほうが大きかった。 体調の回復とともに、本箱に眠ったままの本を手にすることも増えた。 最近は、永井荷風( 1879ー1959、享年79 )や、金子光晴( 1895ー1975、享年80 )の文庫本を引っ張り出して読み返している。 今回は、詩人・金子の本で目に留まったところをすこし書き留めておこうと思う。(荷風の本は次回に…) 金子は詩以外にも、エッセイなどの作品もたくさん出しているが、そのなかに『詩人 金子光晴自伝』がある。この自伝は、 1971年に平凡社から出されたもので、のちに講談社学芸文庫におさめられた(1994年)。私が読んだのは、この学芸文庫版である(↓ 下は「ちくま文庫」版) 。 さて、日本社会の行く末を案じる身として、金子の次のような議論に目が留まった。「満洲事変」( 1931年9月)以降、日本が中国を侵略していく時代の社会状況についての記述である。 「軍人は、戦争が商売である。彼らにとっては、勝つことが正義であろうが、この戦争には、軍人側の宣伝以上に、国民一般の鬱屈した野望が、むしろ食(は)み出して感じられたものであった。 ……国民大衆は、多分に依存的な考えしか持っていないで、日本の軍事力が、現状を打開し、活路を見出してくれることが、一番切実に期待されていたもののようだった。……学校の先生も、文士も、工場主も、芸界人も、職工も、同じ口調だった。……(少数者に対して)圧力をもった大衆は、軍人より輪をかけて、いやなものになっていった。そして終戦後のいまも、そのことにはすこしも変りがないように思われてならない。……明治の日本人が、わずか一銭の運賃値上げに反対して、交番を焼打ちした血の気の多さが、今日、こんな無気力な、奴隷的な、なんの抵抗もできない民衆になりはててしまった……」 この金子の論考は、戦争の時代から平和の時代に変わっても、この社会の根本、日本の人びとの心性はほとんど変わっていないのではないか、という問題提起にもなっている。金子がこの自伝を書いたのは 1950年代から6...