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桶とタガ(箍) …個と国家(2)

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(前回のつづき) 前回に引き続き、堀田善衞の自伝的小説『若き日の詩人たちの肖像』(以下、『詩人たち』}に拠りながら、「個と国家」の関係についてもうすこし考えてみたい。 戦争の時代を生きた「若者」 と呼ばれる主人公の (終りの第四部 からは「男」と呼ばれる) 、揺れ動く精神と行動の軌跡に時代状況をこえて共感をおぼえるところが 多々あるのだが、今回は、「桶とタガ」のたとえで語られるひとつの話を引いてみる。 もちろん、私には手に負えない政治思想や社会思想にかかわる議論をしようというのではない。 さて、文学青年である「若者」は、アジア太平洋戦争の開戦とともに著名な文学者たちが次々と時流迎合的な発言をし始めていくことに違和感をもった。 「武者小路実篤は、袋小路のような支那事変(日中戦争)は実に憂鬱であったが、真珠湾の一撃によって天の岩戸開きにも比すべき夜明けが来た、と言っていた。 …あまりに無責任に、たとえば歌でもうたうみたいにそんなことを言っていいものかどうか。何事にも必ず明暗がある筈であろう。暗の部分で死なねばならぬ者も必ずいる筈である」(『詩人たち』)。 「若者」は、大学を追い出されるように繰り上げ卒業すれば直ちに兵役に就かねばならず、その先には避けがたい死が待っている。そんな「暗の部分で死なねばならぬ者」の一人として鬱屈とした日々を送っている「若者」にとってみれば、上の武者小路の発言は、彼がかつては理想主義・人道主義をかかげていたという点においても、あるいは「明」のなかにも「暗」を見る洞察力を欠いているという点においても、文学者として「あまりに無責任」なものとして映ったのだろう。 さらにまた、フランス文学に通じた文芸評論家の中村光夫までが、「もはや大東亜の天地から米英は駆逐され、さらに我国自身も多年政治に経済にまたは真理の上で圧迫を蒙つて来た、傲慢な二大強国を倒すことによつて新たに生まれ変わらうとしてゐる」などと書くようになっていた。 そして、そうした文学者たちの発言に「若者」はやりきれなさを感じ、次のようにつぶやく。 「それにしても国家や民族というものは、そんなにもよいものなのか? それはいわば桶のタガのようなものではあってもタガは桶ではない。タガがゆるんだのでは桶はバラバラになるかもしれぬ、しかしタガはあくまでタガであって桶そのものではない。」 ここでは、「桶」の

その「死」は誰のものか …個と国家(1)

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ロシアによるウクライナ侵攻をめぐる報道に接していると、日本によるアジア侵略支配の歴史がそれに重なり、しばし考え込んでしまう。そして、戦争という事態が、ぼーっと生きているだけの私の日常にも潜んでいる、たとえば「個と国家」の関係といった問題を思い起こさせるのである。 イギリスの作家・フォースター( 1879ー1970)は、1938年、ヨーロッパでのファシズムの台頭を横目で見ながら、「私の信条」というエッセイを書いている。その末尾に次のような一節がある。 「私は絶対的信条を信じない。しかし現代は信念の時代で、無数の戦闘的信条が横行しているから、自衛上誰もが自分の信条を作らざるをえない。寛容とか善意、同情などでは間にあわないのである。 …それでは役に立たず、こういうものの働きは、軍靴に踏みにじられる一本の花も同じになっている。 (私の信条である)個人主義のほうは、棄てようとしても棄てられそうにはない。英雄的な独裁者は、国民が全員同じになるまで弾圧をくわえるかもしれないが、全員を溶かして一人の人間にできるわけはない。 …ひとつになれ、と命令することはできるだろう。狂気の踊りに駆り立てることもできるかもしれない。しかし、国民は一人一人べつべつに生まれ、べつべつに死んでいくほかはなく、この不可避の終着点がある以上、どうしても全体主義のレールからは脱線してしまうのである。誕生の記憶と死の予感はいつも人間の心にひそんでいて、それが一人の人間を仲間からひきはなし、結果として仲間との交流を可能にするのだ。」(『フォースター評論集』岩波文庫) 「寛容とか善意、同情などでは間にあわない」戦争の時代に、それでもなお、個人主義だけは手放すまいとする作家の姿勢がよく出ている。また、「誕生の記憶と死の予感 …が一人の人間を仲間からひきはなし、結果として仲間との交流を可能にする」という、文学者らしいこの表現には、個が孤絶し完結したものではなく、関係として存立しているということも示唆されているように思われる。 しかし、引用したフォースターの「個人主義」と「全体主義」をめぐる議論は、世界戦争へと時代が急傾斜していたその当時、彼の暮らしていたイギリスという社会土壌では成り立ちえたとしても、たとえば、ナチス政権下のドイツ、あるいはその占領支配下で抑圧された日々を送る人びとには、リアリティを欠く「甘い考え方」だ