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友、逝く。

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9月のはじめ、ある友の死を知らされた。 その彼とは、その ひと月ほどまえにメールの応答をしていた。病について何も触れていなかったが、その時すでに病床にあっただろうことを思えば、言葉もない。 訃報が届いてからというもの、生ききったように逝った彼の生き方を思い、また、遠からずあとを追うことになるわが身をかえりみずにはいられない。   思うところがあり、六朝の詩人、陶淵明( 365~427)の詩を何篇か読み直してみた。その一篇、「挽歌詩」の一節は次のようである。 生有れば 必ず死有り 早く終うるも 命の促(ちぢ)まれるに非ず 昨暮は同じく人為(な)りしに 今旦は鬼録(きろく)に在り …(略)… 千秋万歳の後 誰か栄と辱とを知らんや 但(た)だ恨むらくは 世に在りし時 酒を飲むこと 足るを得ざりしを   『陶淵明』(岩波新書)の著者、一海知義氏は、上の一節を次のように訳出している。 生があれば 必ず死がある 若死にも命数縮んだわけではない 昨夜は同じ生き身の人も 今朝は亡者の過去帳に名が …(略)… 千年万年たったのちには 恥も栄誉も知ったことか 心残りは この世にいたとき 酒が存分飲めなかったこと   「昨暮は同じく人為りしに/今旦は鬼録に在り」。私にとっても友の死は、そのような出来事としてあった。毀誉褒貶は 、しょせん人様が勝手に決めつけるもの。「恥も栄誉も知ったことか」。肝要なことは、誰からどう見られていたかではなく、自身が、自分の「人生という酒」をどれくらい飲めたのか、という自問のほうにある。淵明の 「足るを得ざりしを」の向こうには、それでもまあまあ飲めたほうだったかな、という苦笑が透けて見える。いささかの「心残り」を感ずるところに、よく生きたという手ごたえもある。 また、淵明の「帰去来辞」には、次の一節がある。 已(や)んぬる哉 形を宇内(うだい)に寓(よ)すること復(ま)た幾時ぞや 曷(な)んぞ心を委ねて去り留まるに任せざるや   この一節を、吉川幸次郎氏は『陶淵明伝』(ちくま学芸文庫)で次のように解説している。   「肉体を宇宙のなかに寄寓させているのが、人間の一生、長い一生もあれば、短い一生もあるが、それは荘子がよくいうように、相対的な差異にすぎない。それがどれだけの時間と、もはやあげつらうまい。心を自然にゆだね、たいらかにして、この世を去るべきときにこの世