投稿

10月, 2022の投稿を表示しています

「自主返納」

フランス文学研究者・渡辺一夫( 1901ー1975 )のエッセイのひとつに、恩師のひとりであった「アンリ・アンペルクロード先生のこと」がある(『白日夢』所収)。渡辺は、小・中学時代をフランス語教育をおこなっていた東京の暁星学園ですごした。アンベルクロード先生はそのときからのフランス語の師であり、のちに進学した一高、東大でも同先生に学ぶ機会があった。その長い交流を通じて人間的な薫陶もおおいに受けたのである。さて、そのエッセイのなかに、はっとさせられる一節があった。以下、その一部を引用する。 「(アンベルクロード先生亡きあと)これらの先生(暁星学園のフランス人恩師たち、修道会に所属)と一度会食した折、新築された暁星学園の壁に、先生方のお名前をはりつけた銅板でも掲げて、我々卒業生の感謝の意を表したいと申出ると、たしかグットレーベン先生だったかと思うが、指を天に向けられて、『皆また天で会えるのですから ……』と言って僕の提案を拒まれた。僕はちょっと恥しくなった。記念の銅板も結構である。しかし、それですむものではないにもかかわらず、我々は、それですませようとし易いものである。銅板などという有形なものを越えたものを信じられることが大切なのである。」 それは、ことさらに「有形なもの」にして「顕彰」する/されることはなくとも、いやむしろ、そうする/されることを恥じらい、そっと辞する精神のありようにおいてこそ、ことによせてそのつど想起され、反芻され、深化されていく、人に対する情と理をあわせもった深い思いというものがきっとあり、そうした精神の姿勢こそもっと尊重されたほうがよい、と渡辺は述べているのだろう。たしかに「有形なものを越えたものを信じられることが大切なのである」。 ところで、ここからがこの小文の本題なのだが、先日、地元の運転免許証更新センターに出向いて、免許証の「自主返納」をし、あわせて身分証明書代わりになる運転経歴証明書の交付を受けてきた。 50数年間、お世話になった免許証との「別れ」は、ちょっぴり切ないものであった。 学生時代にはじめて「普通免許」をとった。実家にも、もちろん学生の分際の私にも車はなかったから、免許をとったあと、友人の車を借りて練習したり、すこし遠出をしたりもした。(内心ハラハラしながらも?)快く車を貸してくれた友人にはただ感謝しかない。私が車を所有したのは