「自主返納」

フランス文学研究者・渡辺一夫(1901ー1975)のエッセイのひとつに、恩師のひとりであった「アンリ・アンペルクロード先生のこと」がある(『白日夢』所収)。渡辺は、小・中学時代をフランス語教育をおこなっていた東京の暁星学園ですごした。アンベルクロード先生はそのときからのフランス語の師であり、のちに進学した一高、東大でも同先生に学ぶ機会があった。その長い交流を通じて人間的な薫陶もおおいに受けたのである。さて、そのエッセイのなかに、はっとさせられる一節があった。以下、その一部を引用する。

「(アンベルクロード先生亡きあと)これらの先生(暁星学園のフランス人恩師たち、修道会に所属)と一度会食した折、新築された暁星学園の壁に、先生方のお名前をはりつけた銅板でも掲げて、我々卒業生の感謝の意を表したいと申出ると、たしかグットレーベン先生だったかと思うが、指を天に向けられて、『皆また天で会えるのですから……』と言って僕の提案を拒まれた。僕はちょっと恥しくなった。記念の銅板も結構である。しかし、それですむものではないにもかかわらず、我々は、それですませようとし易いものである。銅板などという有形なものを越えたものを信じられることが大切なのである。」

それは、ことさらに「有形なもの」にして「顕彰」する/されることはなくとも、いやむしろ、そうする/されることを恥じらい、そっと辞する精神のありようにおいてこそ、ことによせてそのつど想起され、反芻され、深化されていく、人に対する情と理をあわせもった深い思いというものがきっとあり、そうした精神の姿勢こそもっと尊重されたほうがよい、と渡辺は述べているのだろう。たしかに「有形なものを越えたものを信じられることが大切なのである」。


ところで、ここからがこの小文の本題なのだが、先日、地元の運転免許証更新センターに出向いて、免許証の「自主返納」をし、あわせて身分証明書代わりになる運転経歴証明書の交付を受けてきた。50数年間、お世話になった免許証との「別れ」は、ちょっぴり切ないものであった。

学生時代にはじめて「普通免許」をとった。実家にも、もちろん学生の分際の私にも車はなかったから、免許をとったあと、友人の車を借りて練習したり、すこし遠出をしたりもした。(内心ハラハラしながらも?)快く車を貸してくれた友人にはただ感謝しかない。私が車を所有したのは、40歳を過ぎたころからである。

また、普通免許のほかに「大型免許」(大型トラックやダンプカー)も取得した。大学を留年し、いわゆる「まともな就職」もできそうになかった(その気もなかった)ので、その免許をとっておいたのだった。残土運びのダンプのバイトを短期間したこともあった。京都に修学旅行で来ている中学生たちを乗せた観光バスと、交差点でギリギリですれ違ったとき、道を譲ってくれたバスの運転手さんに手を挙げて礼を伝えると、女子生徒の何人かが、手が届きそうなバスの窓から私に向かって手を振ってくれたっけ…。あれは一体何だったのだろう?

大型免許のほかに、当時「ナナハン」(排気量750㏄)にも乗れる「大型自動二輪」の免許ももっていた。250㏄の中古バイクに乗って、ときどき遠出もした。パトカーがいないことを確認し、見通しのいい直線道路で思いっきりスピードを出すと、強い風圧を真正面から受けるので、ゴーグルを付けていても目から涙が真横に飛んでいった。フルフェイスのヘルメットが出回る、すこし前の頃の話だ。

そういえば、こんなこともあった。大学の演習ゼミで発表の番になっていた日、準備に手間どりゼミに遅れてしまった(本当は行きたくなかったのであろう)。バイクに乗って急いで大学に向かい、誰かが発表している最中に、手にはヘルメット、黒の革ジャン姿のまま小さな演習室に入った。その瞬間、指導教官以下、10名ほどの学生たちから、まるで「異物」を見るような視線が私に向かって一斉に飛んできた。私の番になって何とか発表をすませると、先生から「ずいぶんと散文的な内容でしたね」とコメントをもらった。古今和歌集についてのゼミだったから、そのひと言は「皮肉」以外の何物でもなかった。それでも授業欠席常習犯の私に単位は出してくれたのだから、М先生には感謝しなければならない。


「運転経歴証明書」の交付手続きをする窓口で、係員の説明を聞きながら、ずっと忘れていた、車やバイクにまつわる、あれやこれやの「運転経歴」が思い出されたのだった。

「自主返納」……人生の最期には、私を超えた「何か」から預かってきた、この「いのち」の「返納」をすることになる。その「返納」のときまで、できるだけ「自主」的に生きたいものだ。


 

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