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”虚しさだけで立止ってはならない” 『土曜日』をめぐって(5)

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(前回の続き、そして「『土曜日』をめぐって」の最終回) これまで、1936年から37年にかけて、京都で発行されていた文化新聞『土曜日』をめぐって、その時代背景や記事内容について少し見てきました。 『京都スタヂヲ通信』を担い、『土曜日』に合流した映画人(俳優)の斎藤雷太郎は、『復刻版 土曜日』(1974年)の解説で、次のように書いています。 「読者の目標は、小学卒から中学卒位までの一般庶民で(斎藤雷太郎も小学卒) 、良い内容を平易に書いて、親しみやすいもの、そして学生やサラリーマンでも興味のもてるもの、これは私の希望でした。独善的な強がりや、先走ったことはさけ、良心的な商業紙としてのたてまえをとった。」 こうした「目標」もあって、『土曜日』の発行部数は、初めは二千部だったのが、のちに八千部くらいまで伸び、採算もとれていたのですが、1937年7月7日の日中戦争の開戦直後から事態は急転します。開戦から1週のち、7月14日に、 フランソア喫茶室 の設立者、立野正一(元画家の活動家)が治安維持法違反の容疑で逮捕され、そして、同年11月には、斎藤雷太郎、中井正一、久野収をはじめ、『土曜日』の編集の中心メンバーが一斉に検挙され、廃刊に追いやられたのです。翌38年には第二次検挙があり、京都で粘り強く続けられてきた抵抗運動は、ほぼ息の根を止められることとなりました。(詳しくは、同志社大学人文研究所編『戦時下の抵抗運動』など) 1933年の滝川事件に関して、久野収は、「 ”危険思想”の内容が、もはや共産主義思想やマルクス主義といった嫌疑にあるのではなく、国家の現状を百パーセント肯定せず、いわゆる国策に批判的な態度をとる学者たちの思想内容におよんで来た」と書きましたが、国家総動員体制にむかう37年には、「国家の現状を百パーセント肯定ぜず」どころか、国家の現状をすすんで「賞揚」しない言論、たとえば『土曜日』の文化的な記事なども封殺される時代になっていたわけです。 昨年末からこのブログで、「小野十三郎」、そして「『土曜日』をめぐって」と、読書メモを書き留めていくなかで、何度も参照し、また 引用した久野収の思索をとおして、1930年代(40年代)の日本における先人たちの思想的苦闘の一端をうかがい知ることができました。そして、これからもうすこし学び、

”桑野通子”と”桑野みゆき” 『土曜日』をめぐって(4)

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(前回のつづき) 映画『有りがたうさん』 に登場する重要人物の一人が、映画冒頭の「配役」で、「有りがたうさん 上原謙」と並んで出てくる、「黒襟の女 桑野通子(くわの・みちこ)」です。「黒襟の女」は、酒場などで働きながら旅から旅へと流れていく「わけあり」で「わけしり」の、肝のすわった女性として造形されています。ときにふてぶてしくもあるのですが、それは社会の偏見や差別とたたかい、潜り抜けてきたそれであることが伝わってきます。バスの中でも、偉そうにしているだけのナマズ髭男をコケにし、手玉にとる一方で、「身売り」されていく娘をどう救えばいいのかも親身に考えている、繊細で思慮深い女性でもあります。 1930年代(戦前)の日本社会では、女性には参政権もなく、男性にはない姦通罪が科されるなど、今以上に酷な状況だったでしょう。ちなみに、滝川事件の滝川幸辰は、治安維持法の問題点だけでなく「姦通罪」が男女平等に反することも指摘する学説を唱えていたため、排斥運動のやり玉にあげられたということもありました。 『土曜日』の「婦人」面には、「明日の花束」という連載コラムがあります。そのなかにあった「男性対女性」という記事(1936年9月19日号)に目がとまりました。 「某百貨店の一男性店員は田舎から花嫁を貰った時に、同じ課の女店員に次の様に云いました。『俺の細君は君達の様なすれっからしで、理屈っぽい女とはダンチだよ。君達は日本女性とは云えんぜ。』」 コラムを書いた女性は、こういうダメ男に対して次のように、皮肉たっぷりガツンとかまします。 「 ……こんな事は彼(一男性店員)独りだけの場合でなく、相当新しい様に見える男でも、底を割って見れば、之に似た様な事はあるでしょう。……この目まぐるしい時代に生きて行こうとする者に、昔の様にのんびりしているのはどうかしています。……となると、彼氏の理想の女性は世界中何処にも居ないらしいです。と云って安月給では家庭外の享楽も出来ないとなると、何かを清算しなければ、面白くない面白くないで暮らさねばならないでしょう。一つ、自分の古さをさっぱり捨てて男らしくなってはどうですか。」 また、別の号(1937年1月5日)の同コラムでは、「阿部定」事件(36年5月)がいつまでも面白おかしく取り上げ続けられていることについて

映画『有りがたうさん』 『土曜日』をめぐって(3)

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(前回のつづき) 文化新聞『土曜日』の紙面は全六面、第二号から、各ページの上にカテゴリーが表示されるようになります。どのページにどのカテゴリーが来るのかは、発行号によって多少動きがありますが、おおむね次のような構成です。 一面 …表紙。これは 前々回の記事 に書きました。 二面 …「文化」。「文化」とありますが、反ファシズム運動など国際政治に関するものも扱われます。 三面 …「婦人」。女性の権利をめぐる話題からファッション論まで。書き手も女性が多いようです。 四面 …「社会」。社会問題、労働現場、街の声(投稿)など、幅広く扱われています。 五面 …「映画」。映画論、外国映画や日本映画についての批評欄です。『土曜日』が『京都スタヂヲ通信』の流れを汲むものなので、かなり力が入っています。 六面 …「趣味娯楽」。発行を重ねるにしたがい読者からの投稿原稿が増え、紙面のカテゴリー名は「くらぶ」と改称されて読者の意見交換の場となります。 さて、『土曜日』で目にとまった記事はいくつもあるのですが、そのなかから私が強く興味をもった記事を二つだけ紹介してみようと思います。 ひとつ目は、「流離の人々 半島出身者の仕事と地位」という見出しのついた記事です。「くらぶ」(六面)に出ていました。その記事なかに次のような映画があることにも触れていました。(以下、引用は現代仮名遣いに直した)。 「松竹の清水宏という監督の作った『有り難うさん』という映画の中には、伊豆半島の山奥で、道路の開通に従事している半島出の同胞たちが、映っている。その映画によると、その人々は崖を切り、山を穿ってやっと自動車道路を開通させたかと思う間もなく、自分たちはそのバスに乗らずに、次の仕事が待っている信州へ徒歩で移って行くのである。峰を渡る人々の白衣の裾が秋風になびく景色が、この映画には撮されていた。」(1936年12月5日号) 記事中に「同胞たち」という語が出てくるので、これを書いたのは朝鮮人読者なのでしょうか。 映画『有り難うさん』(原題は『有りがたうさん』)は、1936年2月27日に公開された映画です。公開日はなんと「2・26事件」発生 の翌日。すでに軍国主義へと急傾斜していく時代であり、翌37年7月には日中戦争が始まります。『土曜日』も37年11

滝川事件と久野収 『土曜日』をめぐって(2)

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(前回のつづき) 『土曜日』は、京大の滝川事件(1933年)のさい、学問の自由・大学の自治を守る運動にかかわった若い研究者たち(中井正一など)が発行していた雑誌『世界文化』と、同じく京都の映画制作関係者(松竹下加茂(下鴨)撮影所の斎藤雷太郎など)の雑誌『京都スタヂヲ通信』が合流してできたという経緯がありました。 そこで、まずその当時(1930年代半ば)、『土曜日』の創刊に尽力した人たちがおかれていた状況や、そのなかで考えていたことをすこし確認したうえで、『土曜日』の記事内容のいくつかを紹介してみたいと思います。記事の時代背景、社会背景も理解できると思うからです。 『土曜日』の編集に関わった一人に、哲学者久野収がいました。当時は京大哲学科の学生で、『土曜日』の中心にいた中井正一の後輩にあたる人です。中井は1900年生まれ、久野は1910年生まれですから、久野は中井より10歳年下です。滝川事件( →  ウィキペディア )当時(1933年)、中井は哲学科の助手(翌34年に講師)、久野は哲学科の最終学年でした(当時の大学は3年制)。 滝川事件は、京大法学部教授滝川幸辰(たきがわ・ゆきとき)の刑法理論を「危険思想」視した文部省(大臣は鳩山一郎)が33年5月に休職処分にしたことをめぐって生じた一連の出来事をいいます。この処分に対してまず法学部教授会が学問の自由、大学自治を侵害するものだとして反対し、法学部の学生をはじめ他学部の学生もこれに応じて抗議活動を展開し、さらにその運動は学外にも広がりました。結果的に同年7月に7名の教授が免官となって「事件」は終息し、運動も夏休みになって退潮していきます。 その抗議運動のなか、文学部で学生たちを組織したのが中井や久野らでした。久野収は自由にものが言えるようになった戦後(1955年)に、かれがその内側で経験した滝川事件について次のように書いています。 (日中戦争にむかう)過程の中でも昭和八年は、特に大きな区切りを示す事件のおこった年であった。ドイツにおけるナチスの勝利は、この年の三月に決定的となり、滝川教授の強制免官を動機とした京大事件は、この年の五月に勃発した。それは、その後一〇年におよぶファシズムの決定的支配を何よりもはっきりと予告する次元であった。  幸か不幸か、私が最後の学生生活をこの

「花は鉄路の盛り土の上にも咲く」 『土曜日』をめぐって(1)

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前回の記事 で、京都の喫茶店「フランソア」と、1930年代に反ファシズム文化運動の一環としてあった文化新聞『土曜日』(1936年7月~翌37年11月、隔週刊)とのかかわりについて少しふれました。 そんなことを知ったかぶりで書いた私も、実際に『土曜日』の紙面を見たことはありません。それで、地元の公共図書館に『土曜日』の復刻版(1974年、三一書房)があったので、見てみることにしました。 創刊号(1937年7月4日)の表紙(一面)は、「題字」、「表紙絵」、「巻頭言」の三段構成で、それ以降もこのレイアウトが踏襲されます。(表紙の無断コピーです。 ↓) 新聞名 の『土曜日』は、同じ時代、フランス人民戦線の文化週刊誌『金曜日』から示唆を受け名づけられたそうですが、『土曜日』という題字のうえに、「生活に対する勇気、精神の明晰、隔てなき友愛」と、この新聞の(おそらく)基調が小さな活字で端的に記されています。80数年のときを隔てたいまも、心に刻んでおきたい言葉です。 そして、何よりもタイトル下の「表紙絵」が目を引きます。京都在住の洋画家、伊谷賢蔵の版画とのことです。藤田嗣治の石版画(リトグラフ)を思わせる西洋的雰囲気をもった絵で、中央の「モガ」(モダンガール)ふうの女性のきりっとした表情が印象的です。この絵から、仮に〈世界(+)女性〉というテーマを読み取ってみれば(こじつけ?)、反対にそこから浮かび上がるのは、当時の〈日本(+)男性〉という価値でしょうか。そうした価値を拡大増幅していく時代と社会を少しでも相対化したいという発行編集者たちの意図もあったかもしれません。伊谷賢蔵は、のち従軍画家として中国に派遣されますが、そこでもいわゆる戦意高揚の絵は描かず、もっぱら中国の人びとの日常や仏跡などを題材にした絵やスケッチを描いたそうです。(興味のある方は →  この論文 ) 表紙の一番下に「巻頭言」があります。美学者中井正一が書いたものです。無署名であるのは、当時、中井は京都帝国大学文学部哲学科の講師で、大学院生当時、1933年の滝川事件(京大事件)に関わったこともあり(いずれ触れたいと思います)、特高警察や大学当局(足を引っ張ろうとする教官はゴロゴロいた)の介入をさけるという「配慮」があったためらしいです(久野収「中井正一と文化新聞『土曜日』