「花は鉄路の盛り土の上にも咲く」 『土曜日』をめぐって(1)

前回の記事で、京都の喫茶店「フランソア」と、1930年代に反ファシズム文化運動の一環としてあった文化新聞『土曜日』(1936年7月~翌37年11月、隔週刊)とのかかわりについて少しふれました。
そんなことを知ったかぶりで書いた私も、実際に『土曜日』の紙面を見たことはありません。それで、地元の公共図書館に『土曜日』の復刻版(1974年、三一書房)があったので、見てみることにしました。
創刊号(1937年7月4日)の表紙(一面)は、「題字」、「表紙絵」、「巻頭言」の三段構成で、それ以降もこのレイアウトが踏襲されます。(表紙の無断コピーです。↓)



新聞名の『土曜日』は、同じ時代、フランス人民戦線の文化週刊誌『金曜日』から示唆を受け名づけられたそうですが、『土曜日』という題字のうえに、「生活に対する勇気、精神の明晰、隔てなき友愛」と、この新聞の(おそらく)基調が小さな活字で端的に記されています。80数年のときを隔てたいまも、心に刻んでおきたい言葉です。

そして、何よりもタイトル下の「表紙絵」が目を引きます。京都在住の洋画家、伊谷賢蔵の版画とのことです。藤田嗣治の石版画(リトグラフ)を思わせる西洋的雰囲気をもった絵で、中央の「モガ」(モダンガール)ふうの女性のきりっとした表情が印象的です。この絵から、仮に〈世界(+)女性〉というテーマを読み取ってみれば(こじつけ?)、反対にそこから浮かび上がるのは、当時の〈日本(+)男性〉という価値でしょうか。そうした価値を拡大増幅していく時代と社会を少しでも相対化したいという発行編集者たちの意図もあったかもしれません。伊谷賢蔵は、のち従軍画家として中国に派遣されますが、そこでもいわゆる戦意高揚の絵は描かず、もっぱら中国の人びとの日常や仏跡などを題材にした絵やスケッチを描いたそうです。(興味のある方は→ この論文

表紙の一番下に「巻頭言」があります。美学者中井正一が書いたものです。無署名であるのは、当時、中井は京都帝国大学文学部哲学科の講師で、大学院生当時、1933年の滝川事件(京大事件)に関わったこともあり(いずれ触れたいと思います)、特高警察や大学当局(足を引っ張ろうとする教官はゴロゴロいた)の介入をさけるという「配慮」があったためらしいです(久野収「中井正一と文化新聞『土曜日』」)。
この創刊号の巻頭言のタイトルは「花は鉄路の盛り土の上にも咲く」とあり、その一節は次のようでした。長くなりますが、引用します。

……
 美しいせせらぎ、可愛いい花、小さなめだかが走っている小川の上を覆うて、灰色の鉄道の線路が一直線に横切った時、ラスキン(ジョン・ラスキン、19世紀の英国の詩人)は凡ての人間の過去の親しいものが斜めに断切られてしまったかの様に戦慄したのである。しかし、テニソン(アルフレッド・テニスン、ラスキンと同時代の英国の詩人)はそのとき、芸術は自然の如く、その花をもって、鉄道の盛土を覆い得ると答えたのである。
 この鉄路の上に咲く花は、千鈞の力(非常に重い力)を必要としたのではない。日々の絶間なき必要を守ったのである。我々の生きて此処に今居ることをしっかり手離さないこと、その批判を放棄しないことに於いて、始めて、凡ての灰色の路線を、花をもって埋めることが出来るのである。
 『土曜日』は人々が自分達の中に何が失われているかを想出す午後であり、きまじめな夢が瞼に描かれ、本当の智慧がお互いに語合われ、明日のスケジュールが計画される夕である。はばかるところなき涙が涙ぐまれ、隔てなき微笑みが微笑まれる夜である。


ここでいう「灰色の鉄路」とは、もちろん30年代の世界=現代のことでしょう。その重くのしかかってくる現代世界に対して、「ラスキン」の詠嘆的、感傷的姿勢ではなく、「テニソン」の能動的、主体的姿勢をもって、つまり「生きて此処に今居ることをしっかり手離さないこと、(かつ)その批判を放棄しないこと」を読者に呼びかけています。発行編集者たち自身への励ましでもあったでしょう。
それは、いま生きているこの現実(時代や社会)を直視し、それと自覚的に向き合うことを述べているのであって、「鉄路」を生み出した技術文明を否定しているわけではありません(それはどちらかと言えばラスキンの姿勢)。

また「この鉄路の上に咲く花は、千鈞の力を必要としたのではない」とあるのを考えれば、「花」=芸術・文化は「力」(戦争)と対比されています。しかし、芸術は、けっして、力なき、ひ弱なものではありません。それは、あくまでも個=人間を自覚し、その表現としてあるのですから、個を抑圧する「力」が作用してくるとき、おのずと、その「力」(戦争)と鋭く対決してしまうものでもあるでしょう。とりわけ「束(たば)」「結束」を意味する「ファッシ(fasciイタリア語)」を語源とする「ファシズム」とも、さらに「鉄の団結」を謳う暴力革命とも、原理的に相いれないものでしょう。
巻頭言の「花」は、その意味で、「鉄路」の単なるお飾りではなく、伊谷賢蔵の絵のように、生活のなかにしなやかに背筋を伸ばして人を立たせるもの、人の背中をそっと押してくれるもののことでしょう。
「生活に対する勇気、精神の明晰、隔てなき友愛」……これこそ、まさに「鉄路に花を」ではないでしょうか。

次に、『土曜日』の記事で目に留まったものを少し見ておこうと思います。


(つづく)


(↓)『土曜日』創刊号にある「京都最高の純音楽喫茶室 フランソア」の広告。店では「古典・近代・現代の名曲レコード」がいつもかかっていたようです(レコードリストも残っている)。「こころの保健室」でもあったのしょうね。



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