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Keep an eye on what's happening.

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「 政治は私たちの日常生活で、私たちが社会でどう生きるか、それはすべて政治とつながる話ですから、日本の皆さんには、香港のことを見て、日本は平和だなと思うのではなくて、世界や自分が生きている社会で常に何が起こっているのかを考える意識を持って欲しいです 。」(周庭/アグネス・チョウさん) (上の引用の元記事は、 ここ  ぜひ読んでみてください。)

" 75 years ago the world saw....

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Jacinda Ardern ニュージーランド首相の〈8・6〉 メッセージ

福沢諭吉「脱亜入欧」 敗戦記念日をまえにして(4)

福沢諭吉の唱えた「脱亜入欧」論について、それは植民地主義だとか侵略主義だとかいう批判がつきものだが、竹内好はもうすこし丁寧な議論をしている。まずは、有名な脱亜論の一節を引くと …。   「我国は隣国の開明を待って共に亜細亜を興すの猶予あるべからず。むしろその伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし ……悪友を親しむ者は共に悪名を免かるべからず。我は心において亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。」(『時事新報』1885年、無署名記事だが福沢が書いたとされる。)   この福沢の「脱亜論」について、竹内は次のように述べる。少し長くなりますが …。 「(福沢は)日本がアジアでないと考えたのでもなく、日本がアジアから脱却できると考えたのでもない。 ……福沢が思想家として生きた時代は、日本が植民地支配化の現実の危険にさらされていた時期から、日本が不平等条約を撤廃して実質的な独立をかちとることを基本国策とした時期にかけてであって、彼にとって『西洋の文明国と進退を共に』するのは、この目的のための選択をゆるさぬ唯一の手段であった。彼において、国の独立という目的と、その目的実現の手段としての、文明の自己貫徹という法則(文明への流れの必然性)への服従とは、見事な緊張関係を保って並存している。 …… (しかし、日清戦争の勝利の後)国の独立の基礎が固まるにつれて、福沢において内面的緊張の下にあった目的(国家の独立)と手段(脱亜入欧)の関係がゆるみ ……『悪友を謝絶する』ことが独立と無関係に目的化され、『亜細亜を興す』方はこの目的に従属化されるようになった。 ……(植民地化の)危機感が弱まるにつれて、日本人の対アジア認識は、政府も民間も、急速に能力が低下した。」(「日本とアジア」1961年)   竹内の議論にしたがえば、福沢の「脱亜入欧」論における目的と手段が転倒した時期から、当の福沢だけでなく、日本社会(日本人)における、アジア蔑視意識=アジア支配の正当化の論理、漱石の言葉では「一等国」意識が出てくる。それはまた「日本人の対アジア認識」の劣化を意味した。なぜなら、自分の偏見を投影した「アジア」(「遅れたアジア」!)しか見ないところから、正確な他者認識が得られることはないからである。そして、偏見に曇らされて他者が見えないとき、それはまた自分自身も見えていないということになるのだが、日本社会はそのこ

夏目漱石「皮相上滑りの開化」 敗戦記念日をまえにして(3)

夏目漱石は、日本の近代について、講演「現代日本の開化」(1911年)において次のように述べている(この部分もよく引用されると思う。私はたしか高校の教科書で読んだと記憶する)。   「こちら(日本側)で先方(西欧)の真似をする。しかも自然天然に発展して来た風俗を急に変える訳にいかぬから、ただ器械的に西洋の礼式などを覚えるより外に仕方がない。 ……これは開化じゃない……我々の遣っていることは内発的でない。外発的である。これを一言にしていえば現代日本の開化は皮相上滑りの開化であるという事に帰着するのである。」   漱石は、「こういう開化の影響を受ける国民はどこかに空虚の感がなければなりません」とも述べている。漱石の言う「開化」は、前回取り上げた、竹内の「自己が自己自身でな」くなる「優等生」型の日本の近代のことにほぼ相当するだろう。 そして、漱石は、この講演の最後で、次のように述べた。   「戦争(日露戦争のこと)以後一等国になったんだという高慢な声は随所に聞くようである。なかなか気楽な見方をすれば出来るものだと思います。」   「戦争以後」、日本で「一等国」という自惚れが膨れ上げってきていることを漱石は危惧した。それはまた、この時期のアジアの知識人たちのいだいていた危惧に通じるものでもあった。竹内好は次のように述べている。   「日本が(西欧の支配下で苦しむ)アジアの復興のリーダーとなることを期待し、しかし同時に帝国主義を警戒する点で、孫文とタゴールの日本観が共通だと私は前に書いた。これは日露戦争のころのアジア人一般の日本観だといっていい。しかし日本は、この期待を裏切った。最初に朝鮮で、次に中国で、そして最後に東南アジアで。アジア諸国の日本観も、ほぼこの順序で、期待から憎しみへ変形していった。」(竹内好「日本とアジア」1961年)   日本がいわゆる「脱亜入欧」路線(*)を選んだことが、孫文やタゴールの「期待を裏切った」。しかし、これまで見てきたとおり、日本の近代が「皮相上滑りの開化」であったとすれば、とても「入欧」は果たせなかったわけだし、「脱亜」は「興亜」という看板を掲げたアジア支配に行き着くことになる。結局、日本は、西欧ともアジアとも正面から向き合うことなく、そのあいだを「一等国」という自己ファンタジーに酔いながら、漂っていたことになる。そして、そのように自己と他者

竹内好「抵抗が自己をつくる」 敗戦記念日をまえにして(2)

前回、ハーバート・ノーマンの著作から「他人を奴隷化するために真に自由な人間を使用することは不可能である」の一節を中心に、日本の戦争と社会について少し考えた。この一節はしばしば引用されるが、中国文学者の竹内好(1910-1977年)も、敗戦後まもなく書いた「中国の近代と日本の近代」(1948年)でその一節を引用した一人であり、そこでノーマンの議論をさらに発展させているように私には読めた。70余年後の現在も、残念ながら、竹内の論考から学ぶことはまだあるようだ。 まず、竹内が「日本の近代」をどのようにとらえていたか、それが端的に出ている一節を引用する。(「戦争と『弔い』と(6)」で、すでに一部を引用しましたが …)   (引用1)「学問なり文学なり、要するに人間の精神の産物である文化が、追いかけてつかまえるべきものとして、外にあるものとして、かれらに観念されている。 …追いつけ、追いこせ、それは日本文化の代表選手たちの標語だ。…学校時代の優等生が日本文化の代表選手になり、優等生制度と優等生精神で次代を教育した。だから日本文化は、構造的に優等生文化である。秀才は士官学校と帝国大学へ集り、その秀才たちが日本を支配した。鈍才は、秀才にたいして劣等意識をもつことで秀才以上に秀才根性だから、とても秀才に太刀打ちできぬ。…おくれた人民を指導してやるのが自分たちの使命だ。おくれた東洋諸国を指導してやる…優等生根性の論理的展開である。」(「中国の近代と日本の近代」)   この「優等生」たちが、日本の近代化を牽引したのだが、かれらはまた植民地経営や戦争を立案指導した点で、「他人を奴隷化する」(ノーマン)大元締めだったといえる。 こうしたリーダーたちの「優等生」性に、戦争に負けた原因があったのだと気づくべきであったが、実際には、この「優等生文化」という構造は温存されたまま、別の「秀才」たちに顔触れをすげかえて、この社会はあわただしく戦後を始めていったのだった。頭のいい「秀才」たちは、いつも機を見るに敏であり、「軍国主義」から「民主主義」に乗り換えるくらいは朝飯前だ。だから、本当の挫折や敗北感、深い自省を経ていない、その「民主主義」なるものも大変危うい。 竹内好が述べていることを、敷衍すれば、以上のようなことになろうか。では、「優等生文化」の何が問題なのだろうか。竹内は次のように言う。   (

ノーマン「自由な人間は他人を支配しない」 敗戦記念日をまえにして(1)

(前置き) この半年くらいのあいだ、日本の近代と「戦争」、あるいは「戦争」という時代にあぶり出された日本社会のありようをめぐって、先人たちが考え論じた文章を「読書ノート」という形でメモしてきた。自分に向けた備忘録であるため、整理されておらず読みにくいものになっていたと思う。読んでくださったかたには、その点をお詫びしたい。 今夏で75回目の「8・15」を迎える。読書ノート「戦争と『弔い』と」で確認したように、戦争のなかのひとり一人の死を「戦没者」として一括りに「追悼」することは、死者の統制となりかねない。さらには「追悼する」一人ひとりをひとつの「追悼共同体」に囲い込むことは、生者の統制ともなりかねない。そうしたことを意識しながら、今回の「敗戦記念日をまえにして」(1)から(4)をもって、「戦争」をテーマにした読書ノートはひとまず終わりにしたい。   バート・ノーマン(1909-1957)という歴史学者がいた。 ノーマンは、父、ダニエル・ノーマン(カナダ籍)が長野で宣教師の活動をしていた関係で、1909年に軽井沢で生れた。神戸のカナディアンアカデミーを卒業後、カナダに渡り、トロント大、ケンブリッジ大(日本史・中国史研究)などを経て、1939年にカナダ外務省に入省。同年、ハーバード大学から Ph.Dを受けた。1940年、駐日公使館の語学官として着任。41年12月、太平洋戦争開戦により、カナダ公使館内に抑留後、翌42年7月、交換船で離日。カナダ外務省で「対日戦争関係情報の分析」に当たる。日本の敗戦にともない来日し、占領軍「対敵諜報部調査分析課長」となって日本の民主化のために尽力する。のち、米国の「赤狩り」(マッカーシズム)の影響を受けさまざまな嫌疑をかけられる。1957年、エジプト駐在大使として着任後、自殺。 (以上は、『ハーバート・ノーマン全集』第四巻末尾の「年譜」による。)   そのノーマンに、『日本の兵士と農民』という著作がある。開戦による拘留の混乱のなか原稿を失ったが、カナダ帰国後に、持ち帰ったノートをもとに再著述し、1943年にカナダで刊行した。そして戦後、1947年に日本語版が出た。本のテーマについて、その「はしがき」には、近代日本の「一般的徴兵制を導入することを決定した、その歴史的環境を手みじかに検討したものである」と記されている。 この本のなかにある、有名な