夏目漱石「皮相上滑りの開化」 敗戦記念日をまえにして(3)
夏目漱石は、日本の近代について、講演「現代日本の開化」(1911年)において次のように述べている(この部分もよく引用されると思う。私はたしか高校の教科書で読んだと記憶する)。
「こちら(日本側)で先方(西欧)の真似をする。しかも自然天然に発展して来た風俗を急に変える訳にいかぬから、ただ器械的に西洋の礼式などを覚えるより外に仕方がない。……これは開化じゃない……我々の遣っていることは内発的でない。外発的である。これを一言にしていえば現代日本の開化は皮相上滑りの開化であるという事に帰着するのである。」
漱石は、「こういう開化の影響を受ける国民はどこかに空虚の感がなければなりません」とも述べている。漱石の言う「開化」は、前回取り上げた、竹内の「自己が自己自身でな」くなる「優等生」型の日本の近代のことにほぼ相当するだろう。
そして、漱石は、この講演の最後で、次のように述べた。
「戦争(日露戦争のこと)以後一等国になったんだという高慢な声は随所に聞くようである。なかなか気楽な見方をすれば出来るものだと思います。」
「戦争以後」、日本で「一等国」という自惚れが膨れ上げってきていることを漱石は危惧した。それはまた、この時期のアジアの知識人たちのいだいていた危惧に通じるものでもあった。竹内好は次のように述べている。
「日本が(西欧の支配下で苦しむ)アジアの復興のリーダーとなることを期待し、しかし同時に帝国主義を警戒する点で、孫文とタゴールの日本観が共通だと私は前に書いた。これは日露戦争のころのアジア人一般の日本観だといっていい。しかし日本は、この期待を裏切った。最初に朝鮮で、次に中国で、そして最後に東南アジアで。アジア諸国の日本観も、ほぼこの順序で、期待から憎しみへ変形していった。」(竹内好「日本とアジア」1961年)
日本がいわゆる「脱亜入欧」路線(*)を選んだことが、孫文やタゴールの「期待を裏切った」。しかし、これまで見てきたとおり、日本の近代が「皮相上滑りの開化」であったとすれば、とても「入欧」は果たせなかったわけだし、「脱亜」は「興亜」という看板を掲げたアジア支配に行き着くことになる。結局、日本は、西欧ともアジアとも正面から向き合うことなく、そのあいだを「一等国」という自己ファンタジーに酔いながら、漂っていたことになる。そして、そのように自己と他者を見失った結果が、あの、対アジア、対欧米との戦争、「アジア太平洋戦争」への暴走であった。
(*)福沢諭吉の「脱亜入欧」論についても、竹内好は興味深い議論をしている。次回に紹介したい。
(つづく)
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