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「祈り」のかたち(3) ーー「自分用の伝統」

鶴見俊輔は『アメノウズメ伝』で、つぎのように書いている。   「(子どもの頃、学校で教えられた)日本の神話は、皇室および政府の独占してかたりなおすものだったので、自分とは別のはなしとして、きいていた。 …… 自分用の伝統という考え方の道すじにおいて、私にとって重大なものと感じられたのは、アニミズムの伝統だった。モノが自分と一緒に生きているという感じ方である。そこから考えなおすと、『古事記』も、日本の神社のしきたりも、和歌も俳句も、自分のよりどころとして感じられる。」   ここで鶴見が「アニミズムの伝統」としているものは、前回の記事で引用した 南方熊楠 の言う、伝統的な「コスモス」に通じるものだろう。 日本の神話を「非科学的だ」として否定することもないし、また、アメノウズメを隠蔽して神話をことさら「荘厳化」する必要もない。 「かまどの神」、「歳神さま」、「田の神、山の神」、「鎮守の神」 …などと親しくともに暮してきた祖先たちの暮らしと「祈り」に思いをはせてみる。そうした「日本の伝統から自分用の目録をつくってゆく」(鶴見俊輔)……そのような一人ひとりの振る舞いをとおして、この列島は、精神的にもよりおおらかで豊かな地になっていくのではないか。   昇る朝陽に向って思わず心のなかで手を合わせるとき、あるいは、沈む夕陽を惜しみながら見送るとき、そのおのずからの「祈り」それ自体を尊重したい。わざわざその「祈り」を規律化、形式化することはないのである。 私が散歩に行く山の上の神社の周囲には、古代の磐座(いわくら)のものとされる大きな岩塊がいくつかある。なかにはアメノウズメがその上で踊ることができそうな巨石もある。「私にとって重大なものと感じられたのは、アニミズムの伝統だった」(鶴見)ではないが、そうした気配のただよう「苔むす巌(いわお)」の傍らに、しばし佇む老人がいたとすれば、それはこの私である。   (おわり)

「祈り」のかたち(2) ーー南方熊楠の「神社合祀反対論」

鶴見俊輔『アメノウズメ伝』には、『古事記』と『日本書紀』に「 アメノウズメのおどり 」が記されているにもかかわらず、今に伝わる『日本書紀』の三つの異本に記されていないのは、「アメノウズメのおどりが、『単なる淫猥事』と考えられるようになってからけずられたものだ」という、歴史学者・井上光貞( 1917ー1983、日本古代史)の説が紹介されている。そして、鶴見は、戦前に自己の受けた学校教育の体験をふまえて次のように述べる。   「(アメノウズメの)みだらなおどりの部分を省略してしまおうというくわだては、支配者を荘厳化する。 …… この時(鶴見が小学校で皇国教育を受けた時)までにいくらか読んでいた日本の神話は、イザナギ・イザナミにしても、スサノオノミコトにしても、神々は認識上の欠陥をあきらかにしていて、到底無謬などと言えるものではない。それがどうして、昭和天皇になると、無謬の権威になるのか。 …… 人はあやまちをおかし得る。認識の上でも、倫理の上でも。支配者はあやまちをおかし得る。そのあやまちは、支配者でない人のあやまちよりも、重大な結果をもたらず。そういう経験則が、社会のなかにひろくあったほうがいいが、残念ながら国家の成立は、その経験則をぼかす方向にはたらく。はっきりと支配者のまちがいを記しておく神話をもち、その神話によってみずからの正統性を保証しながら、どうして明治国家は、まちがいをおかさない帝王という考え方をつくりだして、国民に教えこんだのか。笑いと政治という、日本の神話にある主題は、明治以後の統治にかげをひそめた。」   日本の神々の、過ちもおかし、人間以上に人間的でさえある、おおらかなありようは(ユマニスムにも通じる)、明治以降、隠蔽された。神々は「国家神道」へと再編(一元化)され、天皇が「無謬の権威」として神格化されていくことになる。そして、それはまた 同時に、そのもとでの「国民(臣民)」の創出・管理を意味しただろう。 人びとの日常の暮らしとともにあった「鎮守の社(やしろ)」の多くも明治政府の「神社合祀政策」(一町村一社、 1906年)によって統廃合され、また社とともにあった「鎮守の森」も伐採されることになる。   こうした政府による神々の統制と序列化に反対の声を上げたのは、南方熊楠(みなかた・くまぐす)である。熊楠は、「神社合祀に関する意見」で次のように言う。

「祈り」のかたち(1) ーーアメノウズメ

私が勤めをやめ「隠居ぐらし」に入ってから、そろそろ丸 4年になる。毎日時間がたっぷりあるし(暇であるし)、心身の健康のためにもいいからと思って(することもとくにないし)、裏山散歩によく出かけるようになった。 山の上には古代祭祀場が起源であるという神社があるが、その神社でちょっと気になる光景を目にする。それは、神社に参る人たちの「参拝の身振り」についてである。昔はこんな仰々しい仕方でお参りをしていただろうか、と思わせるほど、「礼儀正しく」参拝する人たちがなんだか増えてきたように感じられるのだ。誰が言い出したかは知らないが(神社本庁あたりか?)、「正しい参拝の仕方は二礼二拍手一礼」という「指導」が浸透してきているのか。 さらに、拝殿での参拝に先だち、鳥居をくぐる前に一礼、また参拝後、鳥居をくぐり出た後に、振り返って一礼する人びともいる。合計 5回も神に向って頭を下げていることになる。いつからこんなにお参りの作法が「煩瑣」で「過剰」なものになったのだろう?  ユマニスト・渡辺一夫 の言葉を借りるなら、そんな「作法」は一体神々とどんな関係があるのか、と問うてみたくなる。   私の記憶をたどれば、子どもの頃( 1950年代)はもちろん(小学校の修学旅行で伊勢神宮に詣でたときでさえ)、大きくなってからも(60年代)、誰かから「正しい参拝の仕方」など教えられたことはない。拝殿に向って手を合わせ目をつむって、自分や親しい誰かの、あるいは世の中にかかわる何かの「願いごと」をする。ただそれでよかったはずなのだ。 こんな戸惑いを感じるとき、鶴見俊輔の『アメノウズメ伝』( 1991年、平凡社)を思い出す。 アメノウズメ(天宇受売命/天鈿女命)は、ご存知の通り、アマテラスオオミカミが弟スサノオノミコトの狼藉ぶりに機嫌を損ねて天岩戸(あめのいわと)に隠れてしまったとき、その岩戸のまえで、集まった神々を笑わせて隠れたアマテラスの気を引き付けるために、「 胸乳をあらわにし、裳の紐を女陰まで押したれ 」て、おもしろおかしい 踊りをおどったと『古事記』に記されている女神である。 私は、小学校のとき、学校から「映画鑑賞」で、日本神話を映画化した『日本誕生』を観に行ったことがある。いま調べてみると、その映画は 1959年に公開されたらしいから、私が4年生の頃のことだ。 神話をモチーフにした全体のストーリー

「宿命とは、しばしば、我々が意欲し足りないものである。」 渡辺一夫(5)

ここまで、渡辺一夫のユマニスムをめぐる思索が、フランス・ルネッサンス研究と不可分のものであったこと、そして、その研究は、研究のための研究ではなく(これこそ、渡辺の言う「人間が機械になっていること」に他ならないだろう)、渡辺が生きる時代と社会に、みずから向き合うための切実な課題としてあったということを、門外漢なりにまとめてきた。 渡辺は、ドイツの作家、トーマス・マン(1875-1955)がナチスドイツから追放され、スイスでの亡命生活を余儀なくされていた時期に書いた『ヨーロッパに告ぐ』(フランス語版、 1937年) を、空 襲の激化する1945年春からひそかに訳しはじめ、敗戦直前の7 月にはその作業を終えていた。 のちに渡辺は、「(自分も戦争で死ぬだろうと思っていたが)『一億玉砕』するにしてもマンを識っている人間が一人でも二人でも生き残れば、すべての可能性は保持されると思った」と、その訳稿を後世に託そうとした思いについて振り返っている。1946年、敗戦の翌年に刊行されたその訳書についてもいずれ触れてみたいが (日本語版のタイトルは『五つの証言』、中公文庫) )、今回の「渡辺一夫ノート」はひとまず、ここで終わりにする。   最後の最後に、これまで取り上げてきた渡辺の著作から、どこかを引用して結びたいと思ったが、考えさせられるところが多く結構迷った。次の文はどうだろうか。   「ーー宿命とは、我々の意欲するものである。また、更にしばしば、我々が意欲し足りないものでもある。  このロマン・ロランの言葉が正しく理解されない限り、すべてが自業自得でけりがつくかもしれないと思う。そして、このようなことを言う私の気持には、多分に日本的ニヒリズムの翳(かげ)がさしている。そして、私は、この日本的ニヒリズムの機械になるのもいけないと、自分に言いきかせているのである。」 うえの引用は、渡辺一夫「人間が機械になることは避けられないものであろうか?」(『狂気について』所収)の末尾の一節である。これが書かれたのが、敗戦からわずか3年後の「 1948年」であったということを銘記しつつ、ロマン・ロランのその洞察をもって、まずは私自身への戒めとしたい。 (おわり)

戦時下のユマニスト 渡辺一夫(4)

戦時期にあって、渡辺がラブレーやエラスムスについての研究を続けていたのは、当時、日本社会を蔽いつくしていた「聖戦」「悠久の大義」「国体護持」「一億玉砕」等々 … といった「狂気」の嵐に呑み込まれず、たとえ半歩でもその手前で踏みとどまろうとする営為であった。研究のための研究ではな い 。   当時、東大医学部の学生でありながら、仏文の授業や同大文学部仏文研究室に出入りしていた加藤周一は、自己にとっての渡辺一夫という存在について、次のように書き記している。   「(当時、仏文研究室で)私がいちばん強い影響を受けたのは、おそらく、戦争中の日本国に天から降ってきたような渡辺一夫助教授( 1942年に就任)からであったにちがいない。渡辺先生は、軍国主義的な周囲に反発して、遠いフランスに精神的な逃避の場をもとめていたのではない。……日本の社会の、そのみにくさの一切のさらけ出された中で、生きながら、同時にそのことの意味を、より大きな世界と歴史のなかで、見定めようとしていた ……(渡辺が研究していたフランス「一六世紀」は)宗教戦争の時代であり、異端裁判の時代であり、観念体系への傾斜が『狂気』にちかづいた時代であって、従ってまた何人かのユマニストたちが『寛容』を説いてやまなかった時代でもあった。すなわち、遠い異国の過去であったばかりでなく、また日本と日本をとりまく世界の現代でもあった。」(加藤周一『羊の歌』)   加藤は、その時期に渡辺と出会っていなければ、「果たして私が、ながいいくさの間を通して、とにかく正気を保ちつづけることができたかどうか、大いに疑わしい」とまで述べている。   では、渡辺一夫その人は、戦時期の自身についてどのように語っているのだろうか。 「第二次大戦中、私は恥ずべき消極的傍観者だった。そして、先輩や友人によくこう言って叱られた。『もし君の側で君の親友が敵の弾で殺されても、君はぼそぼそ反戦論を唱えるかい!』『敵が君に銃をつきつけてもかい!』と。僕は、その場合殺されるつもりであったし、ひっぱたかれても竹鎗で相手を突くつもりはなかったから、友人の思いこみを、解きほぐす力がなかった。『困るな!』と言うだけであった。 ……戦時中、僕は爆撃にも耐えられた。しかし、親しい先輩や友人たちが刻々と野蛮になってゆく姿(*)を正視することはできなかった。二度とあんな苦しい目はいやで

モンテーニュ「人食人について」 渡辺一夫(3)

コロンブスの新大陸「発見」( 1492年)は、ヨーロッパのほとんどの人びとにとっては、それが富の獲得ー植民地収奪ーを意味することでしかなかったが、その新たな経験をとおして、それまでのヨーロッパ中心の世界観、自己像を見直す思索を始めた少数の人びとがいた。そうした一人に、モンテーニュ(1533ー1592)がいた。 渡辺は、『ヒューマニズム考』( 1973年)で「新大陸発見とモンテーニュ」という章をおいている。これは、渡辺が1947年に書いた「モンテーニュと人喰人」(『狂気について』所収)を下敷きにしたものだと思われる。 「コロンブス以後、アメリカ大陸へ渡った各国のヨーロッパ人たちの報告によって、キリスト教徒であるヨーロッパ人よりも、アメリカ大陸の土着民のほうが、はるかに人間として温和であり、キリスト教徒以上にキリストの精神を体得しているらしいばあいがあるということが、しばしば伝えられるようになっていた」。 ヨーロッパ本国では新旧両派が血を血で洗う宗教戦争を繰り返し、また新大陸でもヨーロッパ人が現地住民を虐殺していることを省みれば、「野蛮」「未開」であるのは、むしろ自分たちヨーロッパ人のほうではないのか。そういう自己省察が始められた。それもあって 1537年には、ローマ教皇は「インド人や黒人や「アメリカ大陸の土着民たちを、『本当の人間』と認めることにする、という旨を布告したと伝えられている」。(『ヒューマニズム考』) つまり、新大陸の「発見」とは、ヨーロッパ人にとって、それまでキリスト教徒である自分たちのみを人間とし、そのうえに築いてきた世界観、自己像の歪みを「発見」する(気づく)内的経験でもあった。渡辺は、そこにも、ユマニスムの起源、つまり「相対主義的思考の発生」を見るのである。他者の発見は、ひるがえって自己を発見することであり、それはまたたえざる自己省察を促し、自己の抱いてきた「人間像」を訂正させ、深化させていくことにつながる。   いま、モンテーニュの「人食い人たちについて」(『エッセー』第1巻31章、荒木昭太朗訳、中公クラシックス)をぱらぱらと見ると、「わたしが悲しく思うのは ……彼ら(現地の人びと)の種々のあやまちを調子よく裁きながら、われわれが自分たちの種々のあやまちについてはこれほどにまで盲目でいるということなのだ」という記述がたしかにある。   「己の野蛮

「ユマニスム」(ヒューマニズム)について 渡辺一夫(2)

渡辺一夫( 1901ー1975)には、『渡辺一夫著作集』全14巻があるが、私が読んだのは文庫本『フランス・ルネッサンスの人びと』(岩波文庫、1992年)、『狂気について』(同文庫、1993年)だった。どちらも、渡辺から直接の教えを受けた仏文学者・清水徹が著作集から選んだものであるだけに、文庫本ではあるが、渡辺の思索のエッセンスに触れることができた。 また、最近になって、渡辺が 1974年に新書として書いた『ヒューマニズム考』が再刊された(講談社文芸文庫、2019年)。『フランス・ルネッサンスの人びと』、『狂気について』に収録されている諸論考(研究)を踏まえつつ、一般読者を意識して書き下ろされたものなので、門外漢の私のような者には、これもありがたい。この『ヒューマニズム考』を軸に、前二著も加え、渡辺の思索についてメモしてみる。   渡辺が、ふつう「ヒューマニズム」と呼ばれるものを、フランス語の「ユマニスム」という語を用いて論じるのは、(1)「ヒューマニズム」という語の意味が拡散され曖昧なものになっている(「人道主義」「博愛主義」などなど)、したがって、(2)その語=思想の成立に深く関わるフランス・ルネッサンス期(16世紀、渡辺の専門分野)に目を向けたい、という理由からである。 渡辺はまず、ユマニスムの出発点には、「それはキリストとなんの関係があるのか」という問い、つまり当時の神学研究において議論のための議論、些末な論争がくり返されている事態に対する根本的な問いかけ(批判)があり、それは宗教改革運動と深く関わっていたと言う(『ヒューマニズム考』)。しかし、だからといって、ユマニスムは宗教改革運動それ自体を意味しない。ユマニスムはたとえばルターの言動を批判するものでもあるからだ。   「ルターの改革の願いには、多くの点で、(ユマニストである)エラスムスの共感を得るだけのものがあったのです。しかし重なる迫害や弾圧に憤激したルターは、『それはキリストとなんの関係があるのか』と問いかけるだけでは、生ぬるく非現実的で、事態をいささかも好転させるわけにはいかないと考えて、政治的、軍事的な行動にまで出ました。 …… (しかし)エラスムスは、人間というものが危険な動物であり、狂信がはびこれば、これに対する別の狂信が生まれ、この二つの狂信が衝突するばあい、いかに悲惨なことが起こるかという

「無名の師」 渡辺一夫(1)

昨年( 2020年)の初めから、小野十三郎、中井正一・久野収(週刊『土曜日』)、中野好夫、加藤周一、彦坂諦・赤松清和、竹内好、河上肇…などの著作を、本ブログに「読書ノート」として取り上げ、その読後感をまずは、もの忘れの度合いが嵩じてきた自分自身に向けて記してきた。 年が明けてからも、暇に飽かせて、そんな気ままな読書を続けている。最近は、渡辺一夫、鶴見俊輔の著作を読み返している。こうした先人たちの名前を並べてみると(すべて敬称略)、私自身の「出自」を告白しているようで恥ずかしくもあるが、何といっても私をこれまで導いてくれた人たちだ(まだまだ他にもいるが)。その先達たちには感謝しかない。   ところで、「満州事変」( 1931年9月の柳条湖事件)から日本の敗戦までの「戦争」過程を「十五年戦争」という呼称で、ひとつの連続するそれとしてとらえる視点(*)を提起したのは鶴見俊輔だ。 (*)この視点は、日本のおこなった戦争に対する自己認識の歪み、たとえば「日本はアメリカに敗けた」を、「日本はアジア諸国にも敗けた」へと修正してくれる。  ところで、 この「十五年戦争」という認識枠を借りれば、上記の人びとは、熱狂と悲惨のあいだを振幅したその戦時期にあっても、個としての思索を手離さず生きた人たちだった、といえる。戦時期には共産主義者から天皇主義者へ、そして敗戦後には軍国主義者から民主主義者へ、などという「変わり身のはやさ」を身上とした「知識人」たちとは一線を画する人たちだった。時代の大きな波には当然翻弄されただろうが、 自己省察と自己反省を怠ることはなかった。 その一人、渡辺一夫( 1901ー1975)は、1922年に東京帝国大学文学部仏蘭西文学科に入学、26年に同大学の講師(25歳)となった。専攻は、ラブレーをはじめとするフランス・ルネッサンス研究である。 私が、渡辺の著作とどのように出会ったのかは、もう思い出せないが、かれが 1931年に文部省の在外研究員としてフランスに留学していたときの、次のようなエピソードを読んだことも、渡辺に関心をもっていく一つのきっかけになったと思う。 「この頃( 1931年頃)には、満州事変が始まっていた。『無名の師(いくさ)』(名分のない戦争)という考え方が、ぼんやり頭の片隅にあったせいか、パリで中国人に会うのがつらかったし、フランス人から中国人に間