「無名の師」 渡辺一夫(1)

昨年(2020年)の初めから、小野十三郎、中井正一・久野収(週刊『土曜日』)、中野好夫、加藤周一、彦坂諦・赤松清和、竹内好、河上肇…などの著作を、本ブログに「読書ノート」として取り上げ、その読後感をまずは、もの忘れの度合いが嵩じてきた自分自身に向けて記してきた。

年が明けてからも、暇に飽かせて、そんな気ままな読書を続けている。最近は、渡辺一夫、鶴見俊輔の著作を読み返している。こうした先人たちの名前を並べてみると(すべて敬称略)、私自身の「出自」を告白しているようで恥ずかしくもあるが、何といっても私をこれまで導いてくれた人たちだ(まだまだ他にもいるが)。その先達たちには感謝しかない。 

ところで、「満州事変」(1931年9月の柳条湖事件)から日本の敗戦までの「戦争」過程を「十五年戦争」という呼称で、ひとつの連続するそれとしてとらえる視点(*)を提起したのは鶴見俊輔だ。

(*)この視点は、日本のおこなった戦争に対する自己認識の歪み、たとえば「日本はアメリカに敗けた」を、「日本はアジア諸国にも敗けた」へと修正してくれる。

 ところで、この「十五年戦争」という認識枠を借りれば、上記の人びとは、熱狂と悲惨のあいだを振幅したその戦時期にあっても、個としての思索を手離さず生きた人たちだった、といえる。戦時期には共産主義者から天皇主義者へ、そして敗戦後には軍国主義者から民主主義者へ、などという「変わり身のはやさ」を身上とした「知識人」たちとは一線を画する人たちだった。時代の大きな波には当然翻弄されただろうが、自己省察と自己反省を怠ることはなかった。

その一人、渡辺一夫(1901ー1975)は、1922年に東京帝国大学文学部仏蘭西文学科に入学、26年に同大学の講師(25歳)となった。専攻は、ラブレーをはじめとするフランス・ルネッサンス研究である。私が、渡辺の著作とどのように出会ったのかは、もう思い出せないが、かれが1931年に文部省の在外研究員としてフランスに留学していたときの、次のようなエピソードを読んだことも、渡辺に関心をもっていく一つのきっかけになったと思う。

「この頃(1931年頃)には、満州事変が始まっていた。『無名の師(いくさ)』(名分のない戦争)という考え方が、ぼんやり頭の片隅にあったせいか、パリで中国人に会うのがつらかったし、フランス人から中国人に間違えられて同情めいたことを言われてやりきれない気持にもなった」。(「老耄回顧」、『狂気について』所収) 

渡辺は、中国に対する日本の戦争を、「帝国主義的侵略戦争」とは呼ぶことはなかったが、そう呼んでいた人たちが30年代をとおして少なからず「国体イデオロギー」に宗旨替えしていくなか、その戦争が「無名の師」であるという認識をもち続けた。その思索のあとをすこし追ってみたい。


(つづく)



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