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私の「京都慕情」

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  留年や転学部を重ね、ひと様の倍近く京都の大学に籍を置いていた(だけの?)学生時代。1970年前後の、あの「学園闘争」の時代でもあった(「大学紛争」という言う人もいるようだが…)。    その学生時代によく出入りしていた「喫茶店」をグーグルマップのストリートビューで訪ねてみた。  苦い思い出もいろいろある街だが、もうあれから50年以上の月日が流れた今では、苦さよりも「懐かしさ」のほうが先立つようだ。     しかし、その場所を訪ね当ててみると、当たり前のことだろうが、すでに閉店していたり、閉店予定となっていたりしている。それが時代の変遷というものか。    一つ目の喫茶店は、「学士堂」(京都市左京区田中門前町)。    京都の北部を東西に走る今出川通(いまでがわどおり)と、南北に走る東大路通(ひがしおおじどおり)が交わる「百万遍(ひゃくまんべん)交差点」(写真1↓)の北東角近くで営業していた。            写真1 百万遍交差点     百万遍は、京都大学(以下、「京大」と略)の本部キャンパス北西角にある広い交差点の名称だ。すぐ近くにある「知恩寺」の念仏百万遍に由来する名らしい。    写真1の中央の灰色の建物は京大の総合研究棟のひとつ。そして正面奥に続く道路が今出川通。まっすぐ行けば銀閣寺に行き着く。    写真2(↓)の左端、入り口に「TEA ROOM」の表示(見えにくいだろうが)のある古びた2階建ての建物が、かつての学士堂だ。写真右端には百万遍の交差点が少し見えている。                         写真2 学士堂  この店はもう営業していない。今の学生たちは、あまり喫茶店には行かなくなったのだろうか。あるいは、スターバックスとか、ドトールコーヒーとかの小綺麗なチェーン店のほうを好むのだろうか。    学士堂には、やさしいマスターがいて、ささくれだった学生たち(私を含む)も笑顔で迎えてくれ、一杯一杯、丁寧にコーヒーを淹れてくれた。あのマスターの姿勢から学んだことは、大学で学んだ知識のあれこれよりも大きかったかもしれない。    二つ目の喫茶店は、「京大北門前カフェ 進々堂」(京都市左京区北白川追分町)。    店は、百万遍の交差点から今出川通沿いにすこし東(銀閣寺方面)に...

リトル東京、レストラン「スエヒロ」

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今からおよそ50年前(1970年代後半)、私が米国ロサンゼルスで放浪生活を送っていた時期、皿洗い兼ウェイターとして働いていた、リトル東京(以下、「小東京」)の日本食レストラン「スエヒロ」(末広)が、小東京から数ブロック離れた場所に移転した(せざるをえなくなった)ということを、たまたま下の動画を見て知った。 私がそこで働いていた頃、という以上に、お世話になっていた頃、オーナー兼ウェイトレスの「順子」さん(上の「健司」さんの母)には本当によくしてもらった。「スエヒロ」は下の写真のように、2nd Streetに面して建つ「アランホテル」の一階で営業していた。駐車している車の後ろに「スエヒロ」の看板が見える。その後、小東京の1st Streetに移り、さらに今回、小東京の外への移転を余儀なくされたわけである。 この写真には映っていないが、アランホテルの右隣(西側)には3階建ての小さなホテル「まさごホテル」があり、私はそこで暮らしていた。アランホテルもまさごホテルも、「ホテル」という名が入ってはいるが、実質的には、そこで長期にわたって暮らす人向けの「安アパート」であった。まさごホテルのほうは日系人や私のような日本人旅行者(放浪者)が主に居住していたが、アランホテルのほうは黒人も多く住んでいた。 ある日、まさごホテルのバックヤードで洗濯していると、隣りのアランホテルの非常階段に座ってハーモニカでブルースを奏でる黒人のお兄さんがいて、拍手を送るとウィンクで応えてくれたことを思い出す。 グーグルのストリートビューで見ると(↓)、現在は、アランホテルも、まさごホテルもなくなっている。写真正面、奥へと続く通り(2nd Street)の左側(南側)に、かつてふたつの「安ホテル」が並んであった。その場所には今、都市「再開発」事業によるものなのか、小綺麗な集合住宅が建ち並んでいる。かつて「安ホテル暮らし」をしていた人たちに「行き先」はあったのだろうか。いろいろ助けてもらった人たちの顔が思い浮かぶ。 小東京のすぐ南側には、「スキッドロウ(skid row)と呼ばれる、路上生活者たちが多数暮らしている地域がある。アランホテルやまさごホテルの元住民のなかにも、そ...

忘れえぬ映画館(2)「京一会館」

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  前回取り上げた「 祇園会館 」は京都の中心部(繁華街)にあった大きな映画館だが、今回取り上げる「京一(きょういち)会館」は、いささか場末感も漂う、街はずれの小さな映画館だった。庶民的な市場の階段を上った二階にあった(↓)。 場所は、左京区一乗寺。学生向けの下宿やアパートが多くあったところだ。だから主だった客層は、当然「学生さん」たちとなる。叡電(えいでん、「叡山電鉄」)の一乗寺駅からすぐなので、この電車を利用して、通称 「 鴨川デルタ」横の、始発駅「出町柳」方面から来る観客も多かった。   映画3本立てで、300円~500円くらいの格安の入場料だったかと記憶する。ロードショウ館ではないが、そのぶん、名画からヤクザ映画まで、見逃していた映画を格安料金で観ることができるのもありがたかった。また、週末にはオールナイトの上映もあった。高倉健さん主演の、『 日本侠客伝 』や『 網走番外地 』シリーズをオールナイトで観たこともあった。そういえば、映画の上映中、健さんが 殴り込みに向かう 場面などでは、「健さん!」とか、「待ってました!」とかいう掛け声が、客席のそこかしこから上がったものだ。映画を観終わり、東の空が白みはじめた街を、映画の余韻に浸りながら「オレももう少し頑張ってみるか」と自分に言い聞かせ、下宿まで自転車をこいで帰った、あの朝が思い出される。 しかし、この映画館も1988年に閉館していたということを、つい最近知った。 その「最後の日」を記録した映像がYouTubeに出ていた(↓)。映画の上映が終わると、観客たちから盛大な拍手が送られる。そして支配人から、感謝の気持ちを伝える「最後の挨拶」がある(聞き取りにくいが…)。その場に立ち会うことはできなかったが、YouTubeの映像に向かって、私も小さな拍手を送った。「京一会館さん、本当にありがとうございました!」  

忘れえぬ映画館(1)「祇園会館」

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グーグル・ストリートビューで、以前訪れたところを「散歩」してみることが、ときどきある。 いまから50年以上も前のこと(1970年前後)、学生時代に親しんだ、京都のあの場所、この場所をたどってみたりもしたが、いずれの場所もその当時の面影はほとんどない。その歳月を思えば、それも当然のことだろう。 それでも、かつての「残り香」を求めて、パソコンのマウスを動かし続けている自分が、どこかいじらしい。  留年や転学部を重ね、人様の倍近く、大学に籍だけはおいていた(当時、国立大の授業料は月1000円、バイトすれば何とか支払えた)。授業にはほとんど出なかったが、バイトのない日は、街のそこかしこにある映画館によく足を運んでいた。  大学で所属したサークルも「映画部」(いわゆる「映研」)。中学生のころに映画の面白さに目覚め、高校のころには背伸びして「アートシアター」系の映画館にも出入りするようになっていた。それで、大学入学後、迷わず映画部に入ったわけだった。  さて、映画部に入ったといっても、私の場合、映画を自主制作することもなく(才能もなく)、あちこちの映画館を回って、学割で映画を観てただ楽しんでいただけだったのだが…。 また、映画サークルの活動資金をつくるため、大学の古びた講堂で(学生が自主管理していた)、映画の上映会などもときどき催していた。 その当時、映画はまだフィルムの時代。先輩から35ミリ映写機の扱いかたを教えてもらい、何とか「映写技師」の真似事くらいはできるようになった。配給会社から京都駅に届いた、缶に入ったフィルム(↓)をつめた包みを受け取り、それを抱えて市電に乗って大学まで運んだものだ。宅急便などない時代の話である。 映画フィルムのひと巻き(リール、reel)は、大体15分から20分くらい。だから2時間ほどの映画なら、フィルム巻数は全部で6~8巻ほどになる。観客席の後ろ、すこし高くなった映写室には映写機(↓)が2台並んで設置されており、二人一組で映写を担当する。フィルムひと巻きの映写が終わるタイミングで(スクリーンの画面右上に小さな点が出てくる)、隣の映写機にセットしておいた次のリールを回し始める。これを交互に繰り返しながら、映画全体を切れ目なくつないでいくのである。 さて、ここからが本題なのだが、よく出入りしてい...

ありがとう、ヒデマロさん!

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憂歌団のマネージャーをしていた、ヒデマロさんが、昨年(2024年)1月にお亡くなりになっていたことをつい最近知った。 1952年生まれとのことだから、72歳での死だったのか。 (↓ ヒデマロさんの追悼ライブ 2024年5月21日 at 梅田TRAD:旧バナナホール) 彼と親しく交流したわけではないが、あるイベントで憂歌団のボーカル、木村充揮(あつき)さんの出演をお願いしたことをきっかけに、その後の音楽イベントでもお世話になり、また、扇町公園近くのビルの一室にあった音楽事務所で談笑したり、あつかましくも京都のご自宅でご馳走にあずかったことまであった。いい思い出しかない。 1970年代、京都のライブハウス「拾得(じっとく)」「磔磔(たくたく)」や京大西部講堂などを舞台に展開された、ロック、ブルースのムーブメントを、プロデューサーの立場から牽引したお一人だった。無念なことである。 YouTubeを見てみると、ヒデマロさんが歌をうたっている映像があった。ご自身で楽曲もつくり、歌までうたっていたとは驚きだった。 そのなかに、阪急東通り商店街(商店街といっても実質は飲食店街)を舞台にした「黄昏 東通り」という曲があった(↓)。 1990年前後のころだったか、東通り商店街の一番東の端にあるライブハウス「バナナホール」でライブを彼と一緒に楽しんだ後、近所の立ち飲みバーに連れて行ってもらい、遅くまで楽しくすごした夜のことは今も忘れることはない。もうそのバーはなくなっているみたいだけど…。 ヒデマロさん、そっちの世でも「もう一杯!」って、今夜も楽しんでいますか?