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『詩人 金子光晴自伝』

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一年前を思えば膝の調子もかなりよくなってきて、ようやく庭の草取りもできるようになった。ただそのまましゃがむのはまだきついので、草取り用のイスに座って作業をした。2時間ほどかがんだ姿勢で作業したから腰がすこし痛くはなったが、作業がおわったあとの「達成感」のほうが大きかった。 体調の回復とともに、本箱に眠ったままの本を手にすることも増えた。 最近は、永井荷風( 1879ー1959、享年79 )や、金子光晴( 1895ー1975、享年80 )の文庫本を引っ張り出して読み返している。 今回は、詩人・金子の本で目に留まったところをすこし書き留めておこうと思う。(荷風の本は次回に…) 金子は詩以外にも、エッセイなどの作品もたくさん出しているが、そのなかに『詩人 金子光晴自伝』がある。この自伝は、 1971年に平凡社から出されたもので、のちに講談社学芸文庫におさめられた(1994年)。私が読んだのは、この学芸文庫版である(↓ 下は「ちくま文庫」版) 。 さて、日本社会のゆ行く末を案じる身として、金子の次のような議論に目が留まった。「満洲事変」( 1931年9月)以降、日本が中国を侵略していく時代の社会状況についての記述である。 「軍人は、戦争が商売である。彼らにとっては、勝つことが正義であろうが、この戦争には、軍人側の宣伝以上に、国民一般の鬱屈した野望が、むしろ食(は)み出して感じられたものであった。 ……国民大衆は、多分に依存的な考えしか持っていないで、日本の軍事力が、現状を打開し、活路を見出してくれることが、一番切実に期待されていたもののようだった。……学校の先生も、文士も、工場主も、芸界人も、職工も、同じ口調だった。……(少数者に対して)圧力をもった大衆は、軍人より輪をかけて、いやなものになっていった。そして終戦後のいまも、そのことにはすこしも変りがないように思われてならない。……明治の日本人が、わずか一銭の運賃値上げに反対して、交番を焼打ちした血の気の多さが、今日、こんな無気力な、奴隷的な、なんの抵抗もできない民衆になりはててしまった……」 この金子の論考は、戦争の時代から平和の時代に変わっても、この社会の根本、日本の人びとの心性はほとんど変わっていないのではないか、という問題提起にもなっている。金子がこの文を書いたのは 1950年代から60年代にかけての頃のようだが、2

「ヨイトマケの唄」

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年末、お祭り騒ぎのテレビ番組には背を向けて(いや、普段からもほとんど観ないが)、 YouTubeで ドラマ「海峡」 (NHK、2007年制作)を観ていた。 日韓(朝)の現代史(日本の敗戦、朝鮮の解放)を背景にした、ひと組の男女(韓国人男性・日本人女性)の哀切な物語で、考えさせられるところの多い、とてもよい作品だった(脚本 :ジェームス三木、主演:長谷川京子・眞島秀和)。 2007年の日本(NHK)では、こんな作品を制作・放映できたんだ。日本の「いま」を思うと、ため息がもれる。   そんな思いを 引きずりながら、最近、ずいぶん昔の歌だが、 「ヨイトマケの唄」 (丸山明宏=美輪明宏、 1965年)や 「山谷(さんや)ブルース」 (岡林信康、1968年)を聴き直している。私が高校から大学にかけての頃、よく耳にした歌だ。 前者は、土木工事に従事していた(「土方(どかた)」をしていた )、亡き「かあちゃん」に対する「ぼく」の追慕の思いを、後者は、日雇い労働者のドヤ街「山谷」(東京都台東区・荒川区の一部)にくらし現場仕事にたずさわる「おれたち」の哀歓を歌っている。 最近の歌を聴くことはほとんどないが(ついていけない?)、上のような「地べたで生きる人びと」をうたう歌は、ほとんどないのではないか。   「ヨイトマケの唄」( ↓)… 「ヨイトマケ」(*)の映像が出ていたので、下の動画を選んだ。歌もなかなかお上手。 (*)「ヨイトマケ」= 「建築現場などでの地固めのとき、大勢で重い槌(つち)を滑車であげおろしすること。また、その作業を行う人。作業をするときのかけ声からいう。」(『大辞泉』)     そうそう…。 私は、定職に就いてからも腕時計はカシオの 1000円時計で満足していたクチだから、最近、ロレックスの腕時計が数百万円もする(なかには1000万円越えも)と知ってビックリし、それ以上に、その高価な時計を身に付けたくて、わざわざレンタル屋(シェアサービスと言うらしい) に金を払って借りている人たちがいるということを知って、さらに驚いた。 地に足をつけていない見栄っ張りって、なんだか哀しいよね。(←金のない老人のひがみ? 強がり?)   ところで、作家・中野孝次( 1925-2004)は、自身が『源氏物語』を読み通せなかったことについて、次のように書いている。 「おそらく王朝女流

「ぼくの好きな先生」

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  職場の元同僚に、 Мさんという人がいた。 私より、 15才ほど年上の「大先輩」だった。勤務地は違っていたが、年に何度か一緒に仕事をすることがあり、目先の仕事のこと以上に、生きる姿勢のようなものを無言のうちに教えてもらったように思う。 先月、その Мさんからの、最初で「最後の手紙」が、思いがけず出てきた。正確に言うと、大学の卒論の入った封筒に一緒に入れておいたのを忘れていたのである。 手紙の日付を見ると、 1996年7月。神戸の震災の翌年だ。   Мさんは、その前年、癌が見つかり闘病生活に入っていた。秋口だったか、東京にいるМさんを、同僚の先輩とともに病院に見舞いにうかがったことがあった。車椅子に乗ったМさんは、中庭に出て、私が持って行ったライブの収録テープ(私の下手なギターも入っていた)を楽しんでくれた。 そして、その翌年、「最後の手紙」が私の手元に届いてからほどなく、 Мさんは旅立たれた。 手紙の最後には、「どうかどうか元気で、いつまでも〇〇さん(私の名前)でいてください。」と書かれていた。いま読み返しても、胸が詰まる。   Мさんからの手紙を20数年ぶりに読み返し、今年(2023年)の3月に亡くなった坂本龍一さんのことを改めて思い起した。いつだったか何かの拍子に、Мさんが「坂本(龍一)は生徒だったんだ」と、ぽつんとひと言、もらしたことがあったからだった。 それで今回、坂本龍一さんが通い、 Мさんが先生をしていた「都立新宿高校」同窓会のホームページを見てみることにした。そこに坂本龍一さんのインタビューが掲載されていたので、それを読んでみると、なんと坂本さんはそのインタビューでМさんのことをあれこれ話しているではないか! 驚きもし、また、そうだよなあと深く得心した。 これまで私が述べきた「 Мさん」とは、以下、坂本さんがいう「前中先生」のことである。 すこし長くなるが、同窓会ホームページから、坂本さんのインタビュー記事を引用する(新宿高校 PTA 「同窓生インタビュー」2011年12月)。 ー 印象深い先生は?   ー(坂本龍一)  面白い先生は何人かいて、その中でも一番印象に残っているのは現国 (現代国語= 現代文) の 前中 先生。一年坊主で入学して最初の授業が現国で、そこにやって来たのが前中先生だったんですけど、言うことが過激でびっくりして。いきなり「俺は

「岬めぐり」

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  今年、2023年は、なんだか、たくさんのミュージシャンが次々と亡くなっていったような気がする。   1月  高橋幸宏(YMO 享年70)      鮎川誠(シーナ&ロケッツ 享年 74) 3月  坂本龍一(YMO 享年71) 7月  PANTA (頭脳警察 享年73) 10月  谷村新司 (アリス 享年74)           もんたよしのり(もんた&ブラザーズ 享年 72) 11月   大橋純子(享年73)   私の耳に馴染んだ人たち(程度の差はあるが)を挙げてみると、上のようなことになるかなあ。 70越えの数字(年齢)がずらっと並んでいる。みな、私と同世代 …。遠からず私も…と、わが身をかえりみる。 去年は、山本コウタローさんも亡くなった。享年 73。いやはや、まったくもう…。 坂本龍一さんに関する話をすこし書こうと思っていたのだが、それは次回にして、今回は、山本コウタローさんの曲「岬めぐり」を聴いてみたい、そんな気持になった。   山本コウタローさんといえば、まず大ヒットした「走れ、コウタロー」 ( 1970年) が挙げられるだろうが 、私はそのコミカルな歌よりも、「岬めぐり」(1974年)のほうが当時からしっくりときた。 作詞が山上路夫さんだと知ったとき、なるほどと得心した。(作曲は山本厚太郎(=山本コウタロー))。 イントロの、スリーフィンガーのギターとリコーダーの調べに導かれるように歌が始まるが、その冒頭の、 「あなたがいつか話してくれた 岬をボクは訪ねてきた  ふたりで行くと約束したが いまではそれもかなわないこと …」 の一節で、これはまいった! だった。       (↑ 山本コウタローとウィークエンド。コウタローさん(山本厚太郎)、若いなあ! 彼の人柄が映像にもおのずと滲み出ているなあ。) 初めてこの曲を聴いたとき、失恋した男が自身の未練を吹っ切ろうと旅に出た話 だと思ったのだが(それでもいいが)、すぐに、そうではなく、何かの事情で亡くなった女性を「哀悼」する旅に出た歌ではないかと思い直した。男は愛したその女性を心から哀悼し、あの「約束」を果たすために、そして、もう一度みずから生き直すために旅に出たのだ、と…。そう気づいたとき、その歌がいっそう好ましく感じられるようになった。 「悲しみ深く 胸に沈めたら この旅終えて 街に帰ろう」   か

「大阪で生まれた女」

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  BORO という歌手がいる。 本名、森本尚幸、1954年、兵庫県伊丹市生まれ。 BOROは、「ぼろ着」、「ぼろ車」の「ぼろ」から来る。「民衆の代弁者」として歌い、生きようと、みずからあえて「ぼろ=BORO」と名乗ったという(ウィキペディア)。   BOROの代表曲と言えば、「大阪で生まれた女」だろう(1979年)。 ちょうど、私が退去命令を受け、ロサンゼルスから京都に引き揚げてきて間もない頃だった。 30歳を過ぎたというのに、あてもなくその日暮しを続けていた私の耳に、ある日、「 パッヘルベルのカノン 」を想起させるようなハモンドオルガンのイントロが流れてきたのだった。ラジオの前に、くぎ付けになった。   「大阪で生まれた女」   (1) 踊り疲れた   ディスコの 帰り これで 青春 も終わりかなと つぶやいて あなたの肩を  ながめながら やせたなと思ったら  泣けてきた 大阪で生まれた女やさかい 大阪の街  よ う 捨てん 大阪で生まれた女やさかい 東京へは ようついていかん 踊り疲れた  ディスコの 帰り 電信柱に  しみついた夜   (2) たどりついたら  一人の部屋 裸電球を 付けた けど  また 消して あなたの顔を   思い出しながら 終わりかなと思ったら  泣けてきた   大阪で生まれた女やけど    大阪の街を出よう 大阪で生まれた女やけど   あなたについて行こうと  決めた   たどりついたら   一人の部屋 青春 に   心をふるわせた部屋     ( 3 ) 大阪で生まれた 女が今日   大阪をあとに するけど 大阪は今日も   活気にあふれ また どこからか  人がくる   ふり返ると そこは灰色の街 靑春のかけらを  おき忘れた街     男とともに夢を追いかけ、住み慣れた街を離れて見知らぬ東京へと向う「大阪で生まれた女」。 歌には、彼女の決意と不安の入りまじった切なさが出ていて、「電信柱に沁みついた夜」という詞(暗喩)の巧みさも含め、わが身の来し方を思い、ソウルフルなその歌全体が強く心に残った 歌は東京へと向かう場面で終わるのだが、この女の行く末が気になりもした。   この歌を初めて聴いてから10数年後だったか、「大阪で生まれた女」は、もともと18番まである30分ごえの長い曲であること、そして、そのオリジナルバージョン(↓)では