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ブルーズと「南無阿弥陀仏」と ...その(3)

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(前回のつづき)   ☆  もっとブルーズを!! いったい人間の歴史とは何だったんだ! と息まきたくもなるが、この私もまた、ただただ今日まで無為を重ねてきた「凡夫」のひとりでしかない。それでもしかし、いや、だからこそというべきか、「南無阿弥陀仏」の六字を称えることもない私であっても、その代わりに、もっとブルーズを! と、自分を慰め励ましたくなる夜もある。地獄に「落ちると気附いたその刹那が、不思議にも蓮の台(うてな)に在ることを見るその刹那なのである」(柳宗悦)という境地にはとてもたどりつけそうにはないが、ブルーズの響きに身をゆだね、そのむこうに「一瞬の浄土」を感じてみることくらいは、衆生済度の本願をお立てになった阿弥陀さまならお許しくださることだろう。 ところで、ローリングストーンズが、ロバート・ジョンソンの〝 Love in Vain〟を彼らのアルバムでカバーした頃(1968年)、〝Sympathy for the Devil〟という曲も出していた。どちらも私が大学に入学した頃に、4畳ひと間の下宿でよく聴いていた。〝Sympathy…〟の邦題は、たしか〝悪魔を憐れむ歌〟となっていたように記憶するが、今回、ブルーズと「南無阿弥陀仏」の思想をすこしかじってみたことで、そのタイトルはむしろ〝悪魔に共感(同情)する歌〟とすべきではないかと思った。長い間ずっと、私自身、〝bad〟や〝devil〟の意味の二重性が、つまりブルーズや「南無阿弥陀仏」が、よくわかっていなかったのである。あれから50数年、やっと気づいた、教えられたということが、一知半解もおおいにあろうが、素直にうれしい。いつまでも学び続けていきたい。 最後に、よければ、ローリングストーンズの〝 Love in Vain〟(1995年版)を聴いてみてください。このとき、かれらは50代。20代の頃の演奏とは、またちがった味わいがある。とてもいい! (蛇足) 〝 Well, the blue light was my blues(*),   and the red light was my mind   All my love`s  in vain (*)ミック・ジャガーは、ロバート・ジョンソンの原詞にある〝 my blues〟を〝my baby〟と換えて歌っている。ここは曲のキーワードだから、そのまま〝ブルーズ〟と歌っ

ブルーズと「南無阿弥陀仏」と ...その(2)

(前回の続き) ☆  柳宗悦『南無阿弥陀仏』に教えられたこと 私は、ロバート・ジョンソンのブルーズを聴き直しながら、前回記事(1)を書いていたのだが、そのとき、ふと、柳宗悦 ( 1889-1961)の『南無阿弥陀仏』という著作(1955年)との符合を思った。 民藝(芸)運動の主唱者である柳は、念仏宗に関するこの本を書いた「因縁」について、その冒頭で次のように述べている。 「工芸の世界にくると、自力の道を歩む作品で、本当に美しいものは極めて少く、かえって無名の人が他力によってつくるものにそれが多い。 …工人たちは偉い芸術家にはなり得ずとも、なり得ないままにしばしば見事なものを作る。それどころか、芸術家にすら容易に現わせぬ美しさを現わすに至る。このことは何を語るのか。…省ると、この不思議について教えを述べているのが念仏宗ではなかったか。 弥陀は衆生に往生の資格を要求したことがないのである。必定地獄に落ちるそのままで差支えないと囁いているのである。この声こそは民藝の美にひそむ不思議な事実を解説してくれはしまいか。 …」 ここで柳が述べていることを前回の話(1)に重ねてみると、「自力の道を歩む作品」は、白人農園主たちの世界(「天国」)に、また、無名の工人、職人たちがつくる日常の雑器は、奴隷労働をしいられていた黒人たちの生活世界に対応する、といってもいい。いささか強引な連想(牽強付会?)かもしれないが、そう思った。そして、上の引用文で私が太字にした部分にある、「弥陀」は黒人たちにとっての「神」(もちろん白人農園主たちに都合のよい「神」ではない)、また「必定地獄に落ちるそのままで差支えない」(「悪人正機」?)は、黒人英語の〝 bad〟や「悪魔」に込められている二重の含意に通ずるように思われたのである。 アメリカ黒人にとっての「神/悪魔」と、浄土宗のいう「弥陀/地獄」とは、宗教文化、時代や場所こそ違え、重なるところが大いにあるのではないだろうか。もうすこし話を続けてみたい。 ☆  「民衆」(衆生)の登場 ところで、「鎌倉新仏教」とくくられる、浄土宗(念仏宗)、禅宗、日蓮宗は、平家滅亡から蒙古襲来(文永・弘安の役)の頃まで、国家的危機や天変地異の続く激動期に、南都北嶺の「旧仏教」と対峙するかたちで創始され、そのため度重なる迫害を蒙ったことはよく知られている。 柳宗悦は『南無阿弥陀仏

ブルーズと「南無阿弥陀仏」と ...その(1)

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☆ ブルーズのなかの「悪魔」 伝説のブルーズミュージシャン、ロバート・ジョンソン( 1911ー38)に、”Me and the Devil Blues”という曲がある。朝早くドアをたたく悪魔に起されて、男はその悪魔(デビル)と連れ立って、不実な女の家に乗り込む。そして去り際に、彼女に告げて言う。「俺の死体はハイウェイのそばに埋めてくれ、俺の邪悪な魂がグレイハウンドバスに乗ってさまようから」。         このような歌なのだが、「悪魔と連れ立って」とか「邪悪な魂」とかいう歌詞が、前からすこし気になっていた。男にとって「悪魔」は、否定されるべきもの、忌むべきものというより、むしろ、上のアニメーションに描かれているように、自分に親しいもの、分身のようなものとして捉えられているように感じたからである。   ☆ アメリカ黒人(アフリカ系アメリカ人)にとっての「悪魔」 ウェルズ恵子『魂をゆさぶる歌に出会う アメリカ黒人文化のルーツへ』( 2014年)を読んでいると、次のような一節が目にとまった。それを読んで、ブルーズにしばしば「悪魔」が登場することの意味について、やっと理解の手がかりを得たように思った。 「黒人の英語では〝 bad〟が〝good〟の意味になることがあるのです。…ことばの意味の二重性は価値観の逆転から発生していて、それは奴隷制度時代にまで起源をさかのぼれるでしょう。考えてもみてください。早起きする、よく働く、正直だ、素直だというような『よい』性質を身につけて、奴隷は幸せになれるでしょうか。どんなに働いても利益は主人が得てしまい、彼らは死ぬまで働かされるだけなのです。…つまり主人側の価値観で『よい』ことは、奴隷側には『悪い』ことです。ひるがえって、仕事の手を抜いたりその場しのぎの言い逃れをするのは、奴隷にとっては知恵を使った行動、生きのびるための『よい』行動になります。このような複雑な社会背景が、〝bad〟という単純なことばの、黒人特有の意味の二重性に隠されているのです。」 そうだとすれば、〝 good〟とは、奴隷制度を温存し優雅に暮らす白人農園主たちにとっての好都合な「価値」、という意味でしかない。したがって、白人たちがのたまう「神」に見放されているという思いをぬぐえぬ奴隷(黒人)たちにとってみれば、同じく「天国」から追放された「悪魔」は、どこか親近感を覚える