ブルーズと「南無阿弥陀仏」と ...その(2)

(前回の続き)


☆ 柳宗悦『南無阿弥陀仏』に教えられたこと

私は、ロバート・ジョンソンのブルーズを聴き直しながら、前回記事(1)を書いていたのだが、そのとき、ふと、柳宗悦1889-1961)の『南無阿弥陀仏』という著作(1955年)との符合を思った。

民藝(芸)運動の主唱者である柳は、念仏宗に関するこの本を書いた「因縁」について、その冒頭で次のように述べている。

「工芸の世界にくると、自力の道を歩む作品で、本当に美しいものは極めて少く、かえって無名の人が他力によってつくるものにそれが多い。…工人たちは偉い芸術家にはなり得ずとも、なり得ないままにしばしば見事なものを作る。それどころか、芸術家にすら容易に現わせぬ美しさを現わすに至る。このことは何を語るのか。…省ると、この不思議について教えを述べているのが念仏宗ではなかったか。弥陀は衆生に往生の資格を要求したことがないのである。必定地獄に落ちるそのままで差支えないと囁いているのである。この声こそは民藝の美にひそむ不思議な事実を解説してくれはしまいか。…」

ここで柳が述べていることを前回の話(1)に重ねてみると、「自力の道を歩む作品」は、白人農園主たちの世界(「天国」)に、また、無名の工人、職人たちがつくる日常の雑器は、奴隷労働をしいられていた黒人たちの生活世界に対応する、といってもいい。いささか強引な連想(牽強付会?)かもしれないが、そう思った。そして、上の引用文で私が太字にした部分にある、「弥陀」は黒人たちにとっての「神」(もちろん白人農園主たちに都合のよい「神」ではない)、また「必定地獄に落ちるそのままで差支えない」(「悪人正機」?)は、黒人英語の〝bad〟や「悪魔」に込められている二重の含意に通ずるように思われたのである。

アメリカ黒人にとっての「神/悪魔」と、浄土宗のいう「弥陀/地獄」とは、宗教文化、時代や場所こそ違え、重なるところが大いにあるのではないだろうか。もうすこし話を続けてみたい。


☆ 「民衆」(衆生)の登場

ところで、「鎌倉新仏教」とくくられる、浄土宗(念仏宗)、禅宗、日蓮宗は、平家滅亡から蒙古襲来(文永・弘安の役)の頃まで、国家的危機や天変地異の続く激動期に、南都北嶺の「旧仏教」と対峙するかたちで創始され、そのため度重なる迫害を蒙ったことはよく知られている。

柳宗悦は『南無阿弥陀仏』で、浄土宗について、旧仏教と対比させながら、次のように述べている。

「浄土宗に来って仏教は全く民衆の仏教に深まったといってよい。もはや皇室のものでもなく、ひとり貴族のものでもなく、また武士のものでもなく、一文不知(いちもんふち)の輩(やから)にまで浸みこんで行った。それ故(、)国を守るものたるよりも、人間を救う道であった。もし浄土宗が起こらなかったら、民衆はなおもその暗さや愚かさに沈まねばならなかったであろう。」

このような「民衆の仏教」としての浄土宗の創始は、言葉を換えれば、歴史の舞台に「民衆」が登場するようになったということ、また、天皇や貴族や武士といった権力者たちの支配のもとで、ながく抑圧されてきた「民衆の生」が民衆自身によって主題化されるようになったということも意味するだろう。

 

☆ 「罪」の自覚

古今東西、権力を手にした者たち、権力に追従する者たちは、自己目的化された権力維持(私利私欲?)のために重ねてきた、おのれの「罪」を見つめることは、ほとんどないようである。それを直視する者は、そもそも権力にしがみつき、居座ることはない。再び、柳宗悦の本から引いてみる。

「なぜ平安朝の念仏信仰が鎌倉期ほどの深さを持ち得なかったのか。それはいたずらに極楽を憧れて、裏に激しい罪悪感が伴なっていなかったことによる。…凡ての他力門(浄土宗)の教えは、罪の場から始められる。…自分自らの現下の罪に、一切の注意を集めることである。罪とは『我が罪』ということに外ならぬ。…どうあっても(地獄に)落ちると気附いたその刹那が、不思議にも蓮の台(うてな)に在ることを見るその刹那なのである。何故多くの人々が浄土を見ないままで終ってしまうのか。彼らはどうあっても落ちるほどの凡夫だということを自分に見ないからである。…凡夫のくせに凡夫でない振舞をするのが妄執の悲しさである。その妄執が済度の邪魔をする。」

いまの日本社会においても、権力とゼニのネットワーク(政官財)に群がる者たちは、「どうあっても落ちるほどの凡夫だということを自分に見」てはいないようだし、「妄執」に囚われ「凡夫のくせに凡夫でない振舞をする」、じつに哀しい人びとであるように見える。そのありようは、各地にある所領(荘園)からの上がりで贅沢な暮らしを続けながら、おのれだけは「極楽浄土」に往生することを願った平安貴族たちの、あるいはまた、奴隷制度のうえにあぐらをかいたまま平然と「天国」を夢見ることができた白人農園主たちのありようと、そう遠くにあるようには思えない。富と権力をめぐって繰り返されてきた戦争、収奪、抑圧(差別)などなどが、この世からなくなる未来は、なかなか見えてはこない。それでも、「凡夫」たることを自認せざるを得ない民衆は、いつの時代にあっても、いわれなき苦しみを背負わされながら、ときにその不条理を笑い飛ばしてでも、生き抜いてきたである。それが、ブルーズであり、「南無阿弥陀仏」の称名でなくして、いったい何であろう。


(つづく)


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