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フランソア喫茶室で林達夫を読む

(前回のつづき) 下鴨から四条にもどった私は、四条河原町のどこかの店を覗くという妻とあとで落ち合うことにし、四条小橋(木屋町)近くにある、喫茶店「フランソア」に先に行って休憩することにしました。「フランソア」は1930年代にできた歴史のある喫茶店で(あくまで「喫茶店」と呼びたい)、私も学生時代にちょくちょく立ち寄っていました。入学後しばらくしたころ、この店を知っていた同級生のだれかに連れられてきて、そのとき、「ここ、戦時下で抵抗運動やっていたグループと関係あったところなんやで」と教えられたのでした。店の増改築はあったようですが、古い趣をしっかりと残していて、いまでは「レトロなカフェ」として京都観光の本にもよく紹介されているようです。それですこし心配もしていたのですが、店に入ると平日だったせいか意外とすいていて、好きな赤いビロードの椅子席を選ぶことができました。 (「フランソア喫茶室」のホームページは→  ここ 。フランソアの歴史についても説明されています。ずっと「フランソワ」だと思ってました。) ところで、フランソアと戦時下の抵抗運動のつながりは ……日中戦争の直前(1930年代半ば)、京都にいた美学者中井正一(当時、京大講師) や哲学者久野収(当時、京大生)らが中心となって「土曜日」というタブロイド版の新聞を発行し、ファシズムに対する「最後」の文化的な抵抗運動を続けていたのですが、その関係者たちが集い意見を交換していた場の一つが、このフランソアで、店主(画家)もそのメンバーのひとりだったらしい。まもなくこのグループの関係者は全員、治安維持法違反の嫌疑で検挙、長期拘留されます。 初めてフランソアを訪れてほどなく、そんな「歴史」 を知った18歳の青年は、そのとき何をどこまで理解できたか、あやしい限りですが…。 うす水色のワンピースをきたウェイトレスが注文を取りに来ました(昔からこんな制服だったけ?)。メニューに「コーヒー(フレッシュクリーム・ブラック)」とあるうちの「フレッシュクリーム」のほうを頼みました。この店で「コーヒー」と言えば、この、ウィンナコーヒー未満のこれ、と決まっていたはずですがね。 ひと口飲むと、ああ、フランソアだ、と思います。コーヒーを飲みながら、リュックのなかから『林達夫評論集』(岩波文庫)を取り出し、

下鴨神社の「紅テント」 

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  天気にも恵まれた先週の平日、京都に遊びに行きました。祇園にある小さな美術館「何必館」(かひつかん)でやっている「北大路魯山人展」がそろそろ終わるから行ってみーへん?と、妻に誘われたのでした。「密室に退行している」私を心配してくれたのかもしれません。せっかく京都まで足を伸ばすのだから、すこし京都の街も歩いてみようと出かけることにしました。 魯山人(1883-1959)については、家に本があり(妻の本)、美術工芸の方面に暗い私も写真をパラパラ見てちょっとくらいは知っていたのですが、実際にまとまって作品を見たのは今回が初めてでした。志野や織部の器もよかったですが、書家として出発した人だけに(10代から!!らしい)、展示されている書に目を引くものがありました。 戦前(若い頃)の作品「雪月華」という書と、戦後の「独歩青天」という書が並んで(対照的に?)展示されているのが面白く、ありきたりな美意識を文字にした前者に比べ、後者は、傲慢、唯我独尊ともそしられ、事実そうでもあったであろう魯山人の境地を宣言しているように思え、力と速度を感じさせる筆使いにひかれました。「独り歩めば、青き天(そら)」と、勝手に読んでみました。ちょうど、小野十三郎を読んでいたので「 拒絶の木 」が連想されたからです。「独歩」が「青天」につながっていくことを考えれば、その書に近いのは、小野の詩よりも、むしろ「のん」さんの「 部屋充 」の歌のほうかもしれませんね。 美術館を出て、「京阪四条」、いまは「祇園四条」と名を変えた駅から「出町柳」まで京阪電車で移動し、下鴨神社を散歩することにしました。かつて鴨川をゆっくり見ながら乗っていた京阪がいまでは地下を走り、駅名が「祇園四条」や「神宮丸太町」に変わっていて、私は浦島太郎状態でした。それにしても、観光客のために「祇園四条」としたのはいいとして、川端「丸太町」から平安「神宮」までの距離を考えれば、「神宮丸太町」という新駅名は、ほとんどダマシじゃないのかなあ …。 (下鴨神社周辺の地図 ↓) 京阪「出町柳」駅から高野川にかかる橋を渡って下鴨神社の境内に入りました。ここに来たのは40数年ぶりでしょうか。本殿まで続く「糺の森(ただすのもり)」のなかの長い参道を進むと、毎年五月に流鏑馬の行事がおこなわれる馬場が左手に見

”部屋充” 小野十三郎(4)

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(前回の続き …そして、シリーズ最終回)   戦時期に「国内亡命」を続けた小野十三郎は、かれにとっての戦争とは何だったのかについて、次のように書いている。(すこし長い引用になりますが…) 「…… 相互の人間性を傷つけ合うようなことが、思い出せば、戦時中わたしたちの身辺には毎日のように起きていた。町会、隣組を通じて配給される食糧物資をめぐってのいざこざなども一つだ。なにをしても、そこにはねたみ、そねみ、さいぎ(猜疑)がついて廻った。ふだんはいたって仲のよい隣のおかみさんが、家族の員数に合わせて家の表(おもて)の路上に盛られた配給の炭のことで、わたしの家の分が不当に多いと血相を変えて隣組長に談じこんでいるのを見たこともある。家内が町会になにかつけとどけしているのではないかとうたがうわけだ。……(また、配給の鮭や鱒の分配をめぐって)函(はこ)をこじあけてひき出される氷詰の鮭と鱒を、血走った眼で見ている多数の人の姿はそのままわたしの戦争の実感につながる。それにくらべると、隣組の防空演習や、また実際に焼夷弾をみんなで必死になって消し止めたときの記憶なんか、戦時の想い出として、とり立てて云うほどのことはない。一見些細なこんなことが怖いのだ。戦争が人間にもたらす理不尽な障害、かんたんに消え去らぬ傷痕はこのようなものだとわたしは思っている。しかもかく云うわたし自身も被害者であるにとどまらず、時にはまた他の者に対して加害者であったのである。」(『奇妙な本棚』) 「聖戦」であれ、「反戦」であれ、大きな イデオロギーがかえりみない「 一見些細な」出来事に、詩人は、人が日常においても抱える残酷 さ、さらに それを拡大して見せる戦争の残忍さ をみる 。「戦禍に逃げまどう無辜の民衆」は、また限られた配給品を「血走った眼でみている」人びとでもあり、おのれも そうした一人 であった、という痛み から小野は思考=言葉を立ち上げようとしている。おのれの無作為や加害を自覚することはむずかしい。できれば避けたい。しかし、小野は「イノセントな民衆像」だけでは、「戦争」も「平和」も語ることはできないと言っているのではないか。隣家の取り分に「血相を変えていた」あの「 隣のおかみさん」は、「平和」になると、「そんなこと、ありましたっけ」と、しれっと 言うのだろう。 さて、 小野十三

特攻と”打ち水”と 小野十三郎(3)

(前回からのつづき) 「外界から遮断された密室」(堀切直人)のような場所で生息している私は、ときおり誰かのツイッターをのぞいて(私はしていないが)、外界の空気をすこし吸ってみることがある。先ごろ、ある人(X)のツイッターを見たら、Yというひとの、次のようなツイートを引用し、批判していた。 (Yのツイート )  特攻隊は犬死にや無駄死と心ない事を言う人達がいる。日本という国を最後まで守ろと、愛する家族や子孫が辛い目に合わぬよう身をもって防いだ若者がいた事に気づかないフリをしている …英霊に感謝と敬意の気持ちをいつまでも持ちたい。英霊が守ってくれた日本を私も守っていきたい。 (Xの批判ツイート) 人の生死をこうやって「国のため」に「意味」が有る無いというのは、幸いにして生き残った者たちの傲慢さの表れ。人はその人固有の動機付けによって生きそして死んだのであり。他の何ものでもないのだ。「無駄ではない」という時、国を持ち出さないと人固有の意味を見出せないのがおかしいのだ。 XとYとを並べたとき、少なくとも私はYの考えかたはとらないが、かといってXの論じ方もまたしっくりとこない。どっちもどっちと、高見に立っているわけではない。 まず、 Yの議論については、 前々回の記事 に書いた、「 家族も、さまざまな社会集団も、地域も、国家も、この社会では、情緒共同体としての『ひとつの歌』=『あなたの歌』に唱和することを、ときには無言で(真綿で締め上げるように)、ときには大声で(暴力的に恫喝し)求めてきた」を繰り返せばすむだろう。 一方、 Xについては、個の絶対性を根拠に「ひとつの歌」の虚構を批判しているものの、絶対性という語りえないものを前提においている点で、Yを対話に呼び込むことは難しいだろう。 小野十三郎の択んだ、「ひとつの歌」に背を向け、物質としての工業地帯の「風景」を凝視するという方法論にならうなら、まず「特攻」という作戦の有効性、実効性が 問われる べきである。もちろんパイロットたちには孤独のなかその極限を生きる精神があったわけだが(いや、耐えられず与えられた覚せい剤をうって出撃した者もいたというが)、だからといって、それが作戦として立案され実行されたという「形而下」(物理学)を不問にしてはならない。 立案者たち、推進者たちの思考

”奇妙な本棚” 小野十三郎(2)

(前回のつづき) 小野十三郎の「 拒絶の木 」は、1974年(小野、71歳)に刊行された同名詩集に収められたものだが、「かんけいありません、あなたの歌にわたしは。」の思想は、それ以前からじっくりと深められてきたものだ。それは、戦争期(日中戦争以降)の大阪湾岸の工業地帯を凝視した、小野が30代の頃の詩集『大阪』(1939年)、『風景詩抄』(1943年)の詩群に先行的に見られる。小野は、「大阪」といっても御堂筋や道頓堀ではなく、安治川や淀川の河口に広がる新興の工業地帯に足をしげく運んだ。そして、そこで「風景」を凝視つづけた。それはなぜか? それを追うまえに、ある著名な詩人(芸術家)の詩をここに挟んでみる。 「十二月八日」 記憶せよ、十二月八日。 この日世界の歴史あらたまる。 アングロ・サクソンの主権、 この日東亜の陸と海とに否定さる。 否定するものは彼等のジャパン、 眇たる東海の国にして また神の国たる日本なり。 そを治 (しろ) しめしたまふ明津御神なり。 (以下、略) この詩は、「帝国陸海軍は、本八日未明、西太平洋において、アメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」という開戦を告げる臨時ニュースを聞いて、奮い立った高村光太郎のものだ(これを「詩」といってよいものか?)。 学生時代、高村のこの詩を吉本隆明の光太郎論で初めて知ったとき、これが「国語」教科書で習った「道程」と同じ人の作品かと当惑したことをおぼえている。芸術修業で欧米を直接体験し「白樺」文化人として出発した高村にあってさえ、戦時期にはこのザマだったのだ。 戦時期日本には、『万葉集』に、「日本精神」の根本や「ますらおぶり」などというものをないもねだりするように求め(『万葉集』自身にとっては迷惑なことだったろう)、仮構された「民族精神」を強調する書物があふれていたらしい。学徒出陣の青年たちの多くも岩波文庫の『万葉集』をポケットにしのばせ、避けられないおのれの死の意味を懸命にさがしていた。もちろんその時代を生きた小野十三郎も「万葉もの」に無縁ではなかったのだが、その一方で、工作技術に関する実用的な書物を同時に読み漁ったという。異質なふたつの種類の本が同居する「奇妙な本棚」……小野の自伝『奇妙な本棚』(1974年)にはそのかんの事情について、次のように書かれている。

「あなたの歌」 小野十三郎(1)

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(前回のつづき) 小野十三郎がすこし気になるようになったのは、ずいぶん前のことだが、堀切直人『日本脱出』(1991年)のなかにあった次のような一節に触れてからだった。 「(日本の1930年代には)雪崩を打って押し寄せた軍国主義の圧倒的な勢いに負けて、多くの者(前の時代のリベラリストやヒューマニスト)は脆くも腰くだけとなり、片っ端から戦争協力者へと転身し、戦意発揚のための、みるも無惨なプロパガンダの量産に憂き身をやつす。 ……しかし、この時代の文学者の誰しもが国家の鉄の意志にふがいなく膝を屈してしまったというわけではない。逆に、その意志による強制を自らの精神鍛錬のための条件に転じ、外界から遮断された密室のなかで、どんな外圧をもはね返すような強靭な抵抗精神を自力で形づくるのに成功した文学者もまた、少数ながらまぎれもなく見出されるのである」。 『 日本脱出 』というタイトル は、 戦時 下日本 における残された最後の 抵抗として 、精神の 「国内脱出」 を持続させた 人たち を取りあげたところから来るものだが 、その顔触れに、堀切は、金子光晴、花田清輝、林達夫、石川淳のほか、小野十三郎を挙げていた。金子らと比べ、小野については大阪在住の詩人であることくらいしか知らなかった私は「そういう人だったのか」と、そのときあらためてその名を記憶に刻んだ。そして今回、いくつかの詩作品と自伝などを読んでみると、時代状況は異なるとはいえ、「外界から遮断された密室」のような「場所」で独り言をつぶやきながら生息している私に響いてくる小野の言葉があった。そのいくつかを以下にメモしておこうと思う。 前回に紹介した、詩「 拒絶の木 」の一節「かんけいありません、あなたの歌にわたしは。」の「あなたの歌」とは、まずは、小野が詩論で繰り返し批判した日本の「伝統」とされる「短歌的抒情」のことをふまえたものであるのはまちがいない。その抒情は、たとえば四季の移ろいに感応する「繊細な感性」の表出といわれるようなものだろうが、それはまた一方で自然を観察し分析するもう一つの態度を「理」に走った「無粋」なもの、散文的な態度だとして退けてきたものでもある。自然に向って「なぜ」と問わないこの情緒的な態度は 人間の社会や歴史に対しても「なぜ」を不問にし、ときに社会や歴史までも「自然」や「運命

”京都慕情”

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きのう( 1月12日)の昼どき、テレビをつけると「全国女子駅伝」の中継をやっていた。はじめは「中学生なのにすごい走りやな」なんて思いながら見ていたが、やがてレースそのものより、画面に映る通りや沿道の家並みのほうに目が向いている自分に気づいた。「この辺をよくほっつき歩いていたなあ」とか、「よく通ったあの飲み屋、いつもカモにされてたあのパチンコ屋はまだあるのだろうか」とか、そんなふうにテレビを見ている。きっと私と同じように、それぞれの幻影をさがしてその中継を見ていた人も多くいたにちがいない。 休学や留年で長い学生時代をその街ですごした。卒業後も定職にもつかず(つけず)、学生生活の延長みたいな暮らしをダラダラと続けた。ささくれ立ち、すさんだ日々があった。だから、「よく通った飲み屋」といっても、「友と語らった懐かしさ」などとよべるものがそこにあるわけではない。 情けなく、 野蛮な出来事が思い出されてくる。楽しいこともあったはずなのに、そうした苦い思い出のほうが「駅伝」中継に触発されて起き上がってくる。 「今となっては懐かしい思い出」と言えるのは、その思い出される「過去」がその人の精神において「今」ともう切れている、それが現在の生々しい「課題」とは結びつかない、という場合だろう。その点でいえば、この私など、いや誰にもあることだろうが、なかなか終わったことにはできない「過去」を「今」になお引きずっている、同じ強度ではないにせよ、なお 「現在進行形」であるの か。強度は失われても、その重量はかえって増していくのか。学生時代のことであれ、その後のことであれ、手放しで「懐かしい」と言うことをためらわせることがある 。そういう無様な「過去」 こそが、この「自分」の「今」をかたちづくっているものだからである。どんなに無様なものであれ、その「過去」を「懐かしい思い出」のほうへと追いやれば、自分の「今」が否定される。 気づくと、駅伝中継は最終走者が西京極競技場のトラックに戻ってきたところを映していた。ぼーっと、 2時間ほどテレビの向こうに「幻の京都」を重ねて眺めていたわけだ。やれやれ…。レースのほうは、後半に猛烈に追い上げた京都チームが優勝した。 (↓  下の写真は京都市電が廃止される直前、1970年代後半のものか。市電 6系統が走っていた 東大路と叡電が交差す