下鴨神社の「紅テント」 

 天気にも恵まれた先週の平日、京都に遊びに行きました。祇園にある小さな美術館「何必館」(かひつかん)でやっている「北大路魯山人展」がそろそろ終わるから行ってみーへん?と、妻に誘われたのでした。「密室に退行している」私を心配してくれたのかもしれません。せっかく京都まで足を伸ばすのだから、すこし京都の街も歩いてみようと出かけることにしました。

魯山人(1883-1959)については、家に本があり(妻の本)、美術工芸の方面に暗い私も写真をパラパラ見てちょっとくらいは知っていたのですが、実際にまとまって作品を見たのは今回が初めてでした。志野や織部の器もよかったですが、書家として出発した人だけに(10代から!!らしい)、展示されている書に目を引くものがありました。
戦前(若い頃)の作品「雪月華」という書と、戦後の「独歩青天」という書が並んで(対照的に?)展示されているのが面白く、ありきたりな美意識を文字にした前者に比べ、後者は、傲慢、唯我独尊ともそしられ、事実そうでもあったであろう魯山人の境地を宣言しているように思え、力と速度を感じさせる筆使いにひかれました。「独り歩めば、青き天(そら)」と、勝手に読んでみました。ちょうど、小野十三郎を読んでいたので「拒絶の木」が連想されたからです。「独歩」が「青天」につながっていくことを考えれば、その書に近いのは、小野の詩よりも、むしろ「のん」さんの「部屋充」の歌のほうかもしれませんね。

美術館を出て、「京阪四条」、いまは「祇園四条」と名を変えた駅から「出町柳」まで京阪電車で移動し、下鴨神社を散歩することにしました。かつて鴨川をゆっくり見ながら乗っていた京阪がいまでは地下を走り、駅名が「祇園四条」や「神宮丸太町」に変わっていて、私は浦島太郎状態でした。それにしても、観光客のために「祇園四条」としたのはいいとして、川端「丸太町」から平安「神宮」までの距離を考えれば、「神宮丸太町」という新駅名は、ほとんどダマシじゃないのかなあ…。

(下鴨神社周辺の地図 ↓)





京阪「出町柳」駅から高野川にかかる橋を渡って下鴨神社の境内に入りました。ここに来たのは40数年ぶりでしょうか。本殿まで続く「糺の森(ただすのもり)」のなかの長い参道を進むと、毎年五月に流鏑馬の行事がおこなわれる馬場が左手に見えてきました。そうか、このあたりで唐十郎の率いる劇団「状況劇場」の芝居を見たんだと、遠い遠い記憶がうっすらと呼び出されました。二百人くらい?の観客は収容できそうな大きな紅いテントが設営され、そのなかは文字通り「立錐の余地もなく」地べたに座り込んだ観客でいっぱいでした。誰と一緒に見に来たか、何の演目だったか、もう思い起こすことはできません。ただ、当時、若手男優だった根津甚八が、かぶりつきの舞台に登場するや、あちこちから「ジンパチ!」という女性のかけ声が上がったことはよく覚えています。その後、映画やテレビでも活躍したジンパチさんも数年前に亡くなりましたね。

( 下は、当時の状況劇場の取材映像(1972年)。テント小屋や芝居の雰囲気が伝わる貴重な記録。若き看板女優「李礼仙」が輝いている! )




芝居の中味は覚えていないけど、いまも鮮明に記憶に残っていることがひとつあります。それは、テント小屋でしかできない攪乱的演出のことです。芝居のおわりのほうだったと思いますが、突然、舞台の後ろのテントの布地がおおきくはね上げられ、内で芝居をしていた役者たちが真っ暗なテントの外、闇のなかへ一斉に飛び出して行きました。何が起こったのかと思うまもなく、だれかが「走れ!」と、いま役者たちが飛び出した方を指さして大声を上げています。テントの内にいた私たちも、その声(劇団員でしょう)にしたがって、役者たちのあとを追いました。声に誘導されて着いたところは、糺の森を流れる小川のほとりでした。闇のなか、スポットライトに照らされ、小川に浮かんだ小舟のうえに立つ根津甚八の姿が浮かんで見えます。そこで最後の一幕、幕引きのない芝居が終わりました。役者が走り、観客もともに走って、芝居をともに生きる。度肝をぬかれる爽快な体験でした。いまも身体が覚えているということは、そのとき、私にとって言葉の衝撃よりももっと深く、何かが刻まれたということでしょう。

下鴨神社を出て、賀茂川にかかる葵橋を渡り、出町商店街に行きました。かつて市電が走っていた葵橋からは(ゆるやかなカーブを切って葵橋に入ってくる市電を見ているのが好きだったなあ)、川の上流に北山がきれいに見えました。京都の街は、景観条例など建物規制がされているのか、いまも河畔に立てば、街を囲む山々(北山、東山)がよく見えるのがとてもいいですね。海も山もほとんど見えなくなった神戸とはえらい違いです。出町商店街ではお約束の「ふたばの豆餅」を幸い並ばずに買え、賀茂川と高野川が合流する三角州を左に、左大文字を正面に見ながら加茂大橋を渡って、ふたたび京阪で四条まで戻りました。ゆったりと「こころの保健室」で遊ぶことができました。

なんだか、小学生のとき書いた遠足の作文みたいになりましたね。

(つづく)


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