”部屋充” 小野十三郎(4)

(前回の続き…そして、シリーズ最終回)
 
戦時期に「国内亡命」を続けた小野十三郎は、かれにとっての戦争とは何だったのかについて、次のように書いている。(すこし長い引用になりますが…)

「……相互の人間性を傷つけ合うようなことが、思い出せば、戦時中わたしたちの身辺には毎日のように起きていた。町会、隣組を通じて配給される食糧物資をめぐってのいざこざなども一つだ。なにをしても、そこにはねたみ、そねみ、さいぎ(猜疑)がついて廻った。ふだんはいたって仲のよい隣のおかみさんが、家族の員数に合わせて家の表(おもて)の路上に盛られた配給の炭のことで、わたしの家の分が不当に多いと血相を変えて隣組長に談じこんでいるのを見たこともある。家内が町会になにかつけとどけしているのではないかとうたがうわけだ。……(また、配給の鮭や鱒の分配をめぐって)函(はこ)をこじあけてひき出される氷詰の鮭と鱒を、血走った眼で見ている多数の人の姿はそのままわたしの戦争の実感につながる。それにくらべると、隣組の防空演習や、また実際に焼夷弾をみんなで必死になって消し止めたときの記憶なんか、戦時の想い出として、とり立てて云うほどのことはない。一見些細なこんなことが怖いのだ。戦争が人間にもたらす理不尽な障害、かんたんに消え去らぬ傷痕はこのようなものだとわたしは思っている。しかもかく云うわたし自身も被害者であるにとどまらず、時にはまた他の者に対して加害者であったのである。」(『奇妙な本棚』)

「聖戦」であれ、「反戦」であれ、大きなイデオロギーがかえりみない「一見些細な」出来事に、詩人は、人が日常においても抱える残酷さ、さらにそれを拡大して見せる戦争の残忍さをみる。「戦禍に逃げまどう無辜の民衆」は、また限られた配給品を「血走った眼でみている」人びとでもあり、おのれもそうした一人であった、という痛みから小野は思考=言葉を立ち上げようとしている。おのれの無作為や加害を自覚することはむずかしい。できれば避けたい。しかし、小野は「イノセントな民衆像」だけでは、「戦争」も「平和」も語ることはできないと言っているのではないか。隣家の取り分に「血相を変えていた」あの「隣のおかみさん」は、「平和」になると、「そんなこと、ありましたっけ」と、しれっと言うのだろう。

さて、小野十三郎の「拒絶する木」から一連の話を始めたので、それを終えるにあたり、その詩が、いまもうたわれているとしたら、それはどこにあるのだろかと、すこし考えてみた。この人がうたう、この歌はどうだろう(↓)。

のん「わたしは部屋充」

うるさいやつらはいないし
遊んじゃおうぜ わたしは部屋充

わーって言えば変わるかな
そんな簡単なことじゃないこと
分かっている 分かっている
それでもこみ上げてくるもの

分かんないやつには
つまんないやつには
分かんなくていいから
じゃますんな

ひとりだからできること
探してたんだ わたしは部屋充 

2020年の「拒絶の木」には、「風景」を凝視する小野の「さびしさ」を吹き飛ばす、パンクなパワーがあって好ましい。私も、彼女の何百分の一くらいは見習って、もったいぶった「密室への退行」を、無理して骨折しない程度に「部屋充」へと転換したいものだ。「だまっている だまっている/それでも変わらすにいること」…この部分、いいね。それにしても、このベース、どうなってんの? 暴れるような、すごい疾走感! 




(ありがとうございました。ひとまずおわり)






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