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11月, 2019の投稿を表示しています

Sくんのこと  香港からの励まし(4)

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(前回のつづき) デモ隊が公安員会に申請したコースをはずれ、盾の並んだ阻止線に向うや、規制に入った機動隊とのあいだで衝突が起きた。デモ隊の先頭集団がくずれ、ヘルメットや身体のどこかが警棒でたたかれる「ボコッ」「ボコッ」と いう鈍い音があちこちで聞こえた。デモ隊と機動隊がごちゃごちゃになって、何が何だかわからない混乱がしばらく続いた(このかんの記憶はない)。気づくと、私は両腕を左右二人の機動隊員にがっちりと押さえられていた。長いデモコースのどこかでこうなるだろうと思っていたので、動揺はなかった。おかしなことだが、「これで自分のやるせなさにも始末をつけることができる」というような「安堵感」さえあった。 機動隊員に両脇をかかえられたまま、私は装甲車のほうに連れていかれた。そこには同じく検挙された三人の学生が先に来ていた。そのなかに、私と同じ大学から来ていた顔見知りの学生、 Sがいた(かれの名前はあとから知ったのかもしれない)。顔を見合わせ、おたがい一瞬笑い合ったと思う。「お前もか」という笑いだ。やがて機動隊員と並んで「記念写真」(証拠写真)の撮影が装甲車のまえで始まった。 そのとき突然どうしたのか、 Sが、私を指さし指揮官に向って、「その学生は関係ない人です」と強い口調で訴えたのだ。一瞬私は何のことかわからなかったが、指揮官は、私を取り押さえている機動隊員に解放するようにと指示した。事態をまだよく呑み込めない私に隊員は「早く行け」と命じた。振り返ると、Sは写真を撮られているところだった。私のほうを見て、また一瞬笑ったように見えた。私は、先に進んでいるデモ隊を追いかけた。 Sは、その後、14日間、東京の某警察署に留置されたのち、幸いなことに不起訴処分で釈放された。そのかん、先に大学にもどった私は、中部地方の高校で教師をしているSの父親あてに手紙を書いた。差しさわりのない範囲でだが、ことのあらましや、「Sは間違ったことをしたのではない。東京の救援団体が弁護士の接見や差し入れなどの手配をしてくれている」などと、少しでも安心してもらおうと、親の気持ちもよくわからないまま手紙を出したのだった。 大学にもどってきた Sと何を話したのか、よく覚えていない。だが、再会するまで、Sのことはよく考えていた。ひとことで言えば、この世にはこんな人間がいるのか、と

1970年  香港からの励まし(3)

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(前回のつづき) 香港の運動をつたえるツイッターで、下のような報道写真を見た(西日本新聞に掲載されたらしい)。 この写真を香港理工大学の構内で撮影した日本のカメラマンは次のように、そのときの状況について説明している。 「香港理工大の構内入り口で、高熱を出して苦しむ若者(右)に黒シャツの勇武派の若者が寄り添っていた。(私は)見るに見かねて、(同僚) Мと自分で『外には救急隊がいる。もういいんじゃないか』と諭すと、迷いが吹っ切れたのか、黒シャツの若者は立ち上がった。そして、仲間の身体を支えながら歩き始めた。」(2019年11月20日) もちろん、二人が歩いていく先には警察機動隊の非常線が張られている。そこへ向かって二人は歩いていく。そのまま逮捕されるのである。   この写真を見ていると、こみ上げてくるものがある。香港のこの二人に比べることはできないが、私の「街頭」にも「二人」の出来事があった。それが思い出されてしまうのだ。 1970年6月14日夕方だったか、日米安保条約自動延長に反対する、数万規模の大きな集会が東京の代々木公園であった。政党(社会党、共産党)、労働組合、市民、学生が集まり、集会後、それぞれ、国会をかすめるコースで解散地点の日比谷公園へ向かった(少なくとも学生団体はそうだった)。 全国の大学闘争は前年秋にほぼ「制圧」され、党派組織のなかにはより暴力的な闘争に傾斜し先鋭化していくものもあった。かれらはこの「平和」的な集会には参加せず、東京の各所で機動隊と散発的な衝突を繰り返していたように記憶する。のちに私たちのデモは規模が大きいだけの「壮大なゼロ」だと、かれらに揶揄されることになる(別に腹も立たなかった)。 前日、東京の某大学で14日のデモについて打ち合わせがあり、東京の大学連合のデモ隊と関西の大学連合のデモ隊でかなり大人数の隊列をつくり、行進することが決まった。デモには、隊列をまとめ先導する指揮者がいる。平和的なデモでもそうだ。どういう経緯だったか、私は関西隊の指揮者(複数)のひとりになっていた。「デモ指揮」は一番先頭にいて指揮をする関係上、デモ規制をし、あるいは阻止線をはる機動隊とたえず「接触」することになる。はっきり言えば、たえず、写真をばちばち撮られ、小突かれ足蹴にされる。そんなことが

天に唾を吐く  香港からの励まし(2)

(前回のつづき) 前回の記事で、「50年前、私(たち)も街頭に出たが、そこに決定的に欠けていたのは、上に書いてきたように『街頭』を成立させる運動の多様性であり多元性であった。」と書いたが、運動の「目的」(香港なら「五大要求)、あるいは、「街頭」に出ていく切実性(「香港アイデンティティーの危機」に相当するもの)が、私たちにはあいまいだったから、結果としてその「多様性」「多元性」を欠如させてしまった、と言うべきかもしれない。 たしかに、私たちは多くの過ちを犯した。しかし、私たちが大学でおこなった運動は、次のような構造をもっていたという意味で(強引かもしれないが)、香港の運動になぞらえることもできる。 香港の運動:中国政府(A)ーー〔香港行政府(B)ーー香港市民(C)〕 …〔一国二制度〕 日本の大学闘争:日本政府(A ´)ーー〔大学当局(教授会など)(B´)ーー学生、職員(C´)〕…〔大学の自治〕 「大学の自治」は、「学問の自由」とふかく関係する。戦前にあった政治権力、軍部による学問(研究者)への干渉、弾圧の歴史の反省にたった(はずの)、憲法第23条「学問の自由は、これを保障する。」に法的な根拠をおく。国家から予算をもらう国立大学(B ´)にあっても、政府(文部省、現文科省、A´)からの相対的独立性を保障される。 制度としてはたしかにそうなのだが、日本国家、その構成員が「戦前戦中」(侵略戦争と植民地支配)をどう反省し清算しようと努力したのかがあいまいなまま戦後を始めたように、大学もまた、大学の戦争協力(軍事技術の開発、軍国イデオロギーの「理論」化、生体実験、学徒出陣などなど)を不問にしたまま、かならずしもたたかいとったものではない「大学の自治」のうえにあぐらをかいていた。 しかも、経済成長(優先主義)が進むなか、大学は学問よりもホワイトカラー養成機関、いわゆる「大卒者」の大量生産工場の性格を色濃くしていく。企業のカネでヒモ付きの研究が次第に露骨になり、国立大学にも企業名の付いた講義研究棟まででき始めた(現在では、当たりまえになっているのだろうか)。1966年には、中央教育審議会(文部省におかれた審議会)による「期待される人間像」が出された。当時、高校生だった私(たち)には、それは「産業社会への貢献と愛国心の涵養」を押し付けるものと

オフィスワーカーたちの「昼休み集会」  香港からの励まし(1)

(前回のつづき) なぜ、香港のオフィスワーカーたちの「昼休み集会」を伝える 報道 を見て、心がざわついたのか? 香港行政府に対する香港の人びとの抗議活動というと、もっぱら学生たちの「過激な行動」に焦点が当てられがちだが、上のリンクの映像を見て、その運動は全体として同じ方向を見ながら(「五大要求」を共有しながら)、個々人、各クラスターが、多様多次元、ゆるやかに連続して(シームレスに)展開しているように思えたのだった 。 会社員たちも、「昼休み」の時間を活用して、自分のなし得るぎりぎりの「活動」を、それぞれが、そして連帯しておこなっている。こういう人たちが学生たちの背後にたくさんいるのだ。たとえば「キミは学生だが、オレは会社員だから ……」と、運動が「立場」で切断されるようなことはない。それぞれが「立場」を言い訳に使っていない。そこでは、みなが「当事者」なんだ。 ただ、私は香港社会について語る知見(資格)はもたないし、ましてやその運動を「分析」しようなんって思ってもいない(いや、能力もない)。ただ、香港の現在を伝える報道になぜ私が心を揺さぶられるのか、その自己への関心からすこし考え、書いてみようと思う。 それを考える手がかりが、次の BBCの報道 「香港でなぜ抗議が続くのか アイデンティティーの危機」にあるように思った。「衝突」映像を繰り返し流すより、その「背景」を掘り下げる報道が日本でも必要だろう。 その報道の骨子を簡単にまとめれば、中国と英国という新旧ふたつの帝国による「香港処分」を背景にした「香港人」アイデンティティーの自覚化、というようなことになるのか。香港人家族内の対立葛藤、中国側から香港に移住した人の受けている「差別」などにも目配りしつつも、中国政府(共産党)による香港支配の強化の過程に焦点を当てている。 端的に言い換えれば、英中間の取引により決まった「返還後50年」にあたる「2047年」に、香港人の「自治」の法的根拠をかろうじて支えてきた一国二制度が終わる。つまり、香港と香港人というアイデンティティーは「消滅させられる」。28年後のそのヴァニシングポイントほうから、香港人はいま逆算思考し、逆算行動をしている。いや、その「悪夢」はすでに目の前に見えているものなのだろう。 その視点は、この日本で、五年後に現行憲法が

新ブログ、やってみます。

(旧ブロブの最終記事からの一部引用) 最近、大岡昇平『少年 ある自伝の試み』(一九七五年)を読み返した。『幼年』に続いて連載されたものをまとめた作品だが、その冒頭部分に次のようにある。 「六十四歳になった現在、同じ作業(注:戦地で死を前にしておこなった過去の想起)を行う私にも同じ快感があって、私の叙述の客観性を損なわずにはいないだろう。生活の活力を失った老人の、回想によって生涯をもう一度生き直したい、という願望に繋がっているとすれば醜悪である。ただ現在の私には過去の経験を意識の領域に繰り込む作業に対する渇きのようなものが続いている。」 私が何をグダグダ書いているかといえば、この10年間、このブログ(旧ブログのこと)をとおして、 「渇き」というような強いものはなかったとしても、「過去の経験」についてそこそこ触れてきたことからすれば、私も「過去の経験を意識の領域に繰り込む作業」をしておきたかったのかな、と素直に思えたということだ。60歳をまえにしてブログをなんとなく始めたことの「遠い背景」は、案外そんなところにあったのかもしれないと、大岡に教えられたような気がした。 (以上、引用終わり) それで、旧ブログの「身辺雑記」というカテゴリーに書いてきたような記事をこのブログで、以前よりもさらに少数の読者(はたしているのか?)を想定して、というより自分自身に向けて書き残しておこうと思う。 「ここ数年、涙もろくなった」と何回か書いてきたような気がする。最近、それはさらに高じているようだ。 ここ  ← にあるような報道(映像)を見ると、最初の1分くらいで泣けてくる。 その涙は一体何なのか、そうしたこともこの新ブログで考えてみたい。