オフィスワーカーたちの「昼休み集会」  香港からの励まし(1)

(前回のつづき)

なぜ、香港のオフィスワーカーたちの「昼休み集会」を伝える報道を見て、心がざわついたのか?
香港行政府に対する香港の人びとの抗議活動というと、もっぱら学生たちの「過激な行動」に焦点が当てられがちだが、上のリンクの映像を見て、その運動は全体として同じ方向を見ながら(「五大要求」を共有しながら)、個々人、各クラスターが、多様多次元、ゆるやかに連続して(シームレスに)展開しているように思えたのだった
会社員たちも、「昼休み」の時間を活用して、自分のなし得るぎりぎりの「活動」を、それぞれが、そして連帯しておこなっている。こういう人たちが学生たちの背後にたくさんいるのだ。たとえば「キミは学生だが、オレは会社員だから……」と、運動が「立場」で切断されるようなことはない。それぞれが「立場」を言い訳に使っていない。そこでは、みなが「当事者」なんだ。
ただ、私は香港社会について語る知見(資格)はもたないし、ましてやその運動を「分析」しようなんって思ってもいない(いや、能力もない)。ただ、香港の現在を伝える報道になぜ私が心を揺さぶられるのか、その自己への関心からすこし考え、書いてみようと思う。

それを考える手がかりが、次のBBCの報道「香港でなぜ抗議が続くのか アイデンティティーの危機」にあるように思った。「衝突」映像を繰り返し流すより、その「背景」を掘り下げる報道が日本でも必要だろう。
その報道の骨子を簡単にまとめれば、中国と英国という新旧ふたつの帝国による「香港処分」を背景にした「香港人」アイデンティティーの自覚化、というようなことになるのか。香港人家族内の対立葛藤、中国側から香港に移住した人の受けている「差別」などにも目配りしつつも、中国政府(共産党)による香港支配の強化の過程に焦点を当てている。

端的に言い換えれば、英中間の取引により決まった「返還後50年」にあたる「2047年」に、香港人の「自治」の法的根拠をかろうじて支えてきた一国二制度が終わる。つまり、香港と香港人というアイデンティティーは「消滅させられる」。28年後のそのヴァニシングポイントほうから、香港人はいま逆算思考し、逆算行動をしている。いや、その「悪夢」はすでに目の前に見えているものなのだろう。
その視点は、この日本で、五年後に現行憲法が停止されると「合法的」に決められているとしたら、私はどう考えどう行動するのだろう、という想像的な自問を誘発させる。しかも、自分たちの代表を「議会」に送るという民主主義的回路があらかじめ法制度的に封印されているとき、みずからの政治的意思の表明方法はどこに求めればいいのか。「街頭」をおいて他にはないのではないか。それが、大学で抵抗を続ける(正確にいえば「大学に押し込められた」)学生たちの、オフィス街で「昼休み行動」を続ける勤め人たちの思考感情と行動の根本にあるものであり、その根本をゆるやかに共有する基盤があるからこそ、運動全体に多様性と連続性が生まれるのではないかと思った。

いや、こんなことを書いていても、それはキレイごとだという自分の声がする。50年前、私(たち)も街頭に出たが、そこに決定的に欠けていたのは、上に書いてきたように「街頭」を成立させる運動の多様性であり多元性であった。そして、その欠落の「傷跡」が、香港のオフィスワーカーたちの昼休み活動に触れて、疼くのである。

(つづく)

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