投稿

12月, 2021の投稿を表示しています

「來再次深呼吸 重新出發吧」

イメージ
  よいお年を!!

「世にある人、命にまさる物なし。」

平安末( 12世紀前半)の、時代転換期を背景に、それまで物語に登場することのあまりなかった、新興武士から庶民までのさまざまな逸話が、『今昔物語』に収録されている。そのなかに次のような話があることを知った(巻二六第六話)。 美作国(みまさかのくに、現岡山県東北部)に「中山」(ちゅうざん)という猿の神がいて、年に一度、その地域の人びとは娘たちのなかから一人を生贄(いけにえ)として中山に差し出さねばならなかった。ある年、娘を生贄を出すことになった家の父母が嘆き悲しんでいたのを、東国から来ていた猟師が知って、そんな理不尽なことがあってなるものかと、その父母にたいして次のように語った。 「世にある人、命にまさる物なし。亦(また)、人の財(たから)にする物、子にまさる物なし ……(後略)」。 そして、その男は、猿神を追放するたたかいに命を懸けて立ち上がった。その詳細は省略するが、男は無事猿神を追放し、助けた女と夫婦となった。「(その地域では)其の後、生贄立つことなくして、国平らかなりけりとなむ語り伝えられたるとや」と、その話は結ばれている。 この説話について、作家の中野孝次( 1925ー2004)は、次のように述べている(『今昔物語集(古典を読む4)』 1996年)。 「(生贄伝承などを見てもその時代が)人智のひらけない迷蒙の時代だったことはたしかだろう。が、『今昔』を読んでいると、神仏、とくに仏法僧の力の絶大なことを説くこの説話集の中に、人間がその理性や勇気によって、人間に仇をなす迷蒙を破ってゆく話がいくつかあり ……個人が少しずつその力を自覚しだしているのである」。そして中野は、その男の覚悟とそれを支えた論理を「人間主義の立場だと言ってもよかろう」と、続けている。 このところ私は、「ひと」と「いのち」というようなことについてよく思う。それは、前回の記事「 もう一つの幕末維新史 」でも繰り返したことだが 、それが、いまから 900年以上まえの、ひとりの猟師の言葉(もしくは記録者の解釈)にもまた読み取れて、あらためて心が動かされた。地方や庶民 を踏み台にし富と権勢を競う都の貴族たちから「東国の田舎者」とあざ笑われるような、この猟師のほうが、よほど「ひと」としてまっとうだったのではないか。 ところで、今月( 12月)のはじめ、真珠湾攻撃(日米開戦)から80年ということで、それに関