「世にある人、命にまさる物なし。」

平安末(12世紀前半)の、時代転換期を背景に、それまで物語に登場することのあまりなかった、新興武士から庶民までのさまざまな逸話が、『今昔物語』に収録されている。そのなかに次のような話があることを知った(巻二六第六話)。

美作国(みまさかのくに、現岡山県東北部)に「中山」(ちゅうざん)という猿の神がいて、年に一度、その地域の人びとは娘たちのなかから一人を生贄(いけにえ)として中山に差し出さねばならなかった。ある年、娘を生贄を出すことになった家の父母が嘆き悲しんでいたのを、東国から来ていた猟師が知って、そんな理不尽なことがあってなるものかと、その父母にたいして次のように語った。

「世にある人、命にまさる物なし。亦(また)、人の財(たから)にする物、子にまさる物なし……(後略)」。

そして、その男は、猿神を追放するたたかいに命を懸けて立ち上がった。その詳細は省略するが、男は無事猿神を追放し、助けた女と夫婦となった。「(その地域では)其の後、生贄立つことなくして、国平らかなりけりとなむ語り伝えられたるとや」と、その話は結ばれている。

この説話について、作家の中野孝次(1925ー2004)は、次のように述べている(『今昔物語集(古典を読む4)』 1996年)。

「(生贄伝承などを見てもその時代が)人智のひらけない迷蒙の時代だったことはたしかだろう。が、『今昔』を読んでいると、神仏、とくに仏法僧の力の絶大なことを説くこの説話集の中に、人間がその理性や勇気によって、人間に仇をなす迷蒙を破ってゆく話がいくつかあり……個人が少しずつその力を自覚しだしているのである」。そして中野は、その男の覚悟とそれを支えた論理を「人間主義の立場だと言ってもよかろう」と、続けている。

このところ私は、「ひと」と「いのち」というようなことについてよく思う。それは、前回の記事「もう一つの幕末維新史」でも繰り返したことだが、それが、いまから900年以上まえの、ひとりの猟師の言葉(もしくは記録者の解釈)にもまた読み取れて、あらためて心が動かされた。地方や庶民を踏み台にし富と権勢を競う都の貴族たちから「東国の田舎者」とあざ笑われるような、この猟師のほうが、よほど「ひと」としてまっとうだったのではないか。


ところで、今月(12月)のはじめ、真珠湾攻撃(日米開戦)から80年ということで、それに関連するテレビ番組がいくつかあった。そのなかで、シンガポール攻略戦に参加したひとりの軍人の手記が、次のように紹介されていた。

「戦争とは、何の恨みもない者同士が唯憎しみ合い、殺し合いをして勝ったり負けたりすることは他にたとえようもない無惨なことであり、また無意味なことであるとも思われる。米英との戦争は今始まったばかりであるが、何とか早期に平和が訪れないものであろうか。」

三好正顕(まさあき)という、広島出身の陸軍中尉が、開戦直後の1941年12月に記したものだという。

また、別の番組では、日本への爆撃(原爆投下をふくむ)の出撃基地となったテニアン島に駐留した、一人の米軍将校の手記も紹介された。

「人と人が直接に知り合っていれば、憎しみは生まれません。お互いの人間的な関係のない時に、人は3万フィートの上空から平気で人々に爆弾を落とせてしまうのです。それがまさに戦争の悲劇なのです。」

こう書いたのは、米軍の日本語情報士官、テルファー・ムックという人だ。米軍が1944年夏、テニアンに上陸したあと、ムックは、保護した日本人民間人(甘藷栽培に従事していた沖縄出身者など)の子どもたちのために学校を設立し、現地でその運営にあたったという。

二人の手記の根本には、それぞれが「敵」と「味方」に分れていても、同じ思想が流れている。もちろんこの二人は、軍という組織に属しており、いざとなれば、相手の名を知らぬまま互いに殺し合う関係におかれていたことは否めない。しかし、二人はそのような状況のなかでも、「自分の名において、なし得る思考」を手放さず、国家という共同観念や軍という組織にその思考のすべてを預けることはけっしてなかったのである。そのことを二人の手記は語っている。

互いに出会うことはかなわなかったものの、三好とムックが残した言葉について考えるとき、古今東西の別はあっても、東国の猟師が踏み進んだ「ひと」の道を、かれら二人もまた歩んでいたのではないかと思うのだ、いや、そう思いたいし、その一筋の道はまだ私たちの前に途切れず続いていると信じたいのである。


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