もう一つの幕末維新史(1) 切実な「つまらぬこと」
ひと月ほど前、『戊辰物語』という本(以下、『物語』)を読んだ。この本には、幕末維新期の江戸・東京を生きた古老たちからの聞き書きやそれを整理した話が載っている(私が読んだのは、1928年の初刊本の再刊版、岩波文庫のもの ↓)。
「幕末維新」に関する本といえば、討幕側と幕府側との権力闘争を描いたもの、またその「プレイヤー」たちの思想や行動に焦点をあてたものなどいろいろとあるが、それらと違ってこの『物語』には、その時代を江戸のふつう(一般)の人びとがどう生き、かれらの目と心に何が映っていたのかが記録されていて、とても興味深かった。
戊辰の年(1868年)は、政治史的には鳥羽伏見の戦いから東北戦争(会津戦争など)、箱館戦争(五稜郭)へと続く、「近代国家」建設の主導権をめぐる内戦期にあたる。江戸でも戊辰五月十五日に(うるう年でもあり梅雨の時期だったらしい)、上野戦争があった。徳川家の菩提寺である上野の寛永寺に拠る彰義隊を「官軍」が包囲攻撃したたたかいである。彰義隊は、新政府軍の兵力に抗しきれず、壊滅、敗走した。朝に始まった戦闘は、夕方には決着がついた。
『物語』から、上野戦争にかかわる三つの話を紹介したい(他にも興味深い話はいろいろあるのだが…)。
1 近づく戦争、「朝風呂」を楽しむ庶民たち
『物語』には、仏師であった高村光雲(光太郎の父)が語った次のような話が紹介されている。
「(江戸でも戦争がいつ始まるかという状況なのに)…町人などは呑気なもので、朝湯などで、流し場へ足を投げ出し、手拭いを頭の上へのせながら、『近い中に公方様と天朝様との戦争があるんだってなア』というような話を仕合う位のものである。これから、どうしようなどというような考えなどは持つ者はいなかった。」
四月にあった新政府軍の江戸入城を前後して、「公方様」と「天朝様」のあいだで緊張した状況が生じていたが、庶民は普段どおり風呂屋でのんきに「朝湯」を楽しんでいる。高村の話ぶりからは、庶民にとっては「政治」(意識)も、それがわが身に及ばない限り、風呂屋で交わす世間話のひとつにすぎないほどのものだった、というような「批評」も聞こえてくる。
しかし、この時代、そもそも庶民は制度上、政治参加から排除されていたわけだから、政治状況が緊迫していようが、これまでどおり「朝湯」を楽しむのは当然のことであり、「お上が変わったところでオレたちの生活は変わらない」というような、私にも心当たりのある、あきらめと「なんとかなるさ」の入り混じった思いをそこに読むこともできる。また、かれらは、そのように「無権利」状態におかれていたからこそ、ときに一揆や打ちこわしという切羽詰まった直接行動に出ることもあったわけであり、庶民には庶民の、権力者たちの「政治」を相対化してしまうような「公道」意識もあった。
こう見てくると、近代の「公道」ともいうべき憲法にもとづく諸権利を手にしたものの、現代人も生きがたさにおいてはそう遠くにいるようには思えない。「朝湯」に象徴されるような共同性=対話の場を失ってひとりぽつねんと暮らす、この私も偉そうな「批評」などはできないのである。だから、社会の片隅で、公正さをもとめて声を上げる「ひとり一揆」とでもいうようなたたかいに立ち上がるひとの話を伝え聞くと、ほんとうに頭が下がるのである。
2 「計算高い」武士たち
さて、話を『物語』に戻して…。
「高みの見物」を決め込んだ庶民たちに対して一方の、政治に関与する武士たちは、どのような考えをもって上野戦争(彰義隊)にかかわったのだろうか。『物語』によれば、「義をあきらか(彰)にする」という隊名にもかかわらず、必ずしも固い信念(忠義)やイデオロギーにもとづいて行動していたとはかぎらないようである。「彰義隊余聞」(『物語』所収)は、次のような話を伝えている。
「(上野戦争では)旗本や御家人(いずれも将軍直属の家臣)の二男、三男などが、羽織に足駄がけで(上野山に)やって来た。長男は官軍へつき、二男などが彰義隊へ入る。いわばどちらへ転んでも、何とか家だけは残って行くという両天秤で、彰義隊があんなにもろくやられるとも思わないし、必ず最後には官軍が勝つ事も信じられないので、一門が馴れ合いで、敵味方に分れるものが多かった。従って山(上野山の彰義隊の拠点)を死守しようなどという気持の武士は極く僅少であった。」
この証言を引いて、「武士の忠義」とは所詮この程度のものだったなどと言いたいのではない。そうではなくて、その時代の実相を知らぬ後世の者たちが(私もそのひとり)、「武士道」だの、「もののふのこころ」だのと、ことさらそれを持ち上げ美化することの滑稽さを言いたいだけである。美化された観念にひとり陶酔する人に水をさすつもりはないが、どうか、人様までそうした観念に巻き込むことだけはやめてもらいたい。
共同的観念が膨らみ暴走するとどうなるかは、国家間の戦争、民族紛争、あるいは党派的・宗派的抗争などが引き起こす事態を、過去・現在に照らして見れば明らかではないか。だから、『物語』で伝えられる「何とか家だけは残って行くという両天秤」にかける武家の「計算高さ」を、「武士道」に悖るものだと、いきり立って切り捨てることはない。それでよいではないか。身分制度上の区分はあっても、武士たちの思考・行動も、ほんとうのところは、「朝風呂」で「呑気」に世間話を交わす「町人」たちのそれとそう違っていたわけではない。
そうであるなら、私(たち)がもっと目を向けてよいのは、その名のもとに殺戮をくり返し引き起こし、それを「正当化」してきた大仰な観念体系(「絶対」化された宗教、国家、民族、何々主義などなど)よりも、「戊辰」からおよそ150年後のいまを生きるこの私にも認められる、日々の処世における「くだらないが切実な悩み」や、それでもなんとかひとを「ひと」としてつなぎとめている、時代と社会を超えて手渡されてきた「公道」とでもいうようなものの「普遍性」のほうではないのか。
権力闘争やヒーロー物語として語られる多くの「幕末もの」よりも(よく考えれてみれば、それらは「謀略」と「殺人」の物語でもある)、この『戊辰物語』のほうに私の心が向くのは、声高に論じられる「天下国家」論から置いてきぼりにされたような日々の「つまらぬこと」どもに、喜び、くよくよもし、またときには、「私」や集団・階級(身分)をこえてつらぬく「公道」のほうからわが身をかえりみて恥じ入りもする、私と同じ「ひと」がそこにいたからである。
(つづく)
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