天に唾を吐く  香港からの励まし(2)

(前回のつづき)

前回の記事で、「50年前、私(たち)も街頭に出たが、そこに決定的に欠けていたのは、上に書いてきたように『街頭』を成立させる運動の多様性であり多元性であった。」と書いたが、運動の「目的」(香港なら「五大要求)、あるいは、「街頭」に出ていく切実性(「香港アイデンティティーの危機」に相当するもの)が、私たちにはあいまいだったから、結果としてその「多様性」「多元性」を欠如させてしまった、と言うべきかもしれない。
たしかに、私たちは多くの過ちを犯した。しかし、私たちが大学でおこなった運動は、次のような構造をもっていたという意味で(強引かもしれないが)、香港の運動になぞらえることもできる。

香港の運動:中国政府(A)ーー〔香港行政府(B)ーー香港市民(C)〕…〔一国二制度〕
日本の大学闘争:日本政府(A´)ーー〔大学当局(教授会など)(B´)ーー学生、職員(C´)〕…〔大学の自治〕

「大学の自治」は、「学問の自由」とふかく関係する。戦前にあった政治権力、軍部による学問(研究者)への干渉、弾圧の歴史の反省にたった(はずの)、憲法第23条「学問の自由は、これを保障する。」に法的な根拠をおく。国家から予算をもらう国立大学(B´)にあっても、政府(文部省、現文科省、A´)からの相対的独立性を保障される。
制度としてはたしかにそうなのだが、日本国家、その構成員が「戦前戦中」(侵略戦争と植民地支配)をどう反省し清算しようと努力したのかがあいまいなまま戦後を始めたように、大学もまた、大学の戦争協力(軍事技術の開発、軍国イデオロギーの「理論」化、生体実験、学徒出陣などなど)を不問にしたまま、かならずしもたたかいとったものではない「大学の自治」のうえにあぐらをかいていた。
しかも、経済成長(優先主義)が進むなか、大学は学問よりもホワイトカラー養成機関、いわゆる「大卒者」の大量生産工場の性格を色濃くしていく。企業のカネでヒモ付きの研究が次第に露骨になり、国立大学にも企業名の付いた講義研究棟まででき始めた(現在では、当たりまえになっているのだろうか)。1966年には、中央教育審議会(文部省におかれた審議会)による「期待される人間像」が出された。当時、高校生だった私(たち)には、それは「産業社会への貢献と愛国心の涵養」を押し付けるものとしか読めなかった。

そうした流れを追いかけるように、「紀元節(建国記念日)」が復活する。
休日が一日増えるのはいいが、その内容が問題だ。最初の建国記念日の日(1967年2月11日)、休校となった高校に何人かで「同盟登校」をしたことを思い出す。登校日にはいやいや行っているのに、休校日にわざわざ登校する自分がおかしかった。その行動に加わったのは、自分の生き方を誰かに決められ、押し付けられるのはいややなあ、という体の拒否反応からくるものでしかなかったが、ビートルズやローリングストーンズの音楽の向こうに感じた「自由」が、その行動と、ともにバカな行動をしている友の笑顔にあった(と思えた)。のんびり、苦労知らずで育ってきた私が、はじめて「自由」ということにじかにさわった日だったのかもしれない。大学入学後、「オレもその日に登校したよ」と、同級生となった何人から聞いた。SNSのない時代、当時のおバカな高校生たちはばらばらだったが、知らぬまにつながってもいたんだとあとから知った。

話を戻すと、60年代の高度成長期の社会変容のなか、かれらにとっての社会を再編成するため「大学の自治」B´ーC´〕に、A´がより強度をまして介入してきたのである。香港にたとえれば、香港の制限付き自治(一国二制度)に中国政府が露骨に介入してくることに当たる。当事者であるにもかかわらず、なんの決定権も与えられていないC´(C)は、まずB´(B)に自治空間におけるさまざまな問題を提起し、それを改革するための要求事項を突き付ける。B´(B)とC´(C)の間で話し合いが始まる。しかし、それが、A´(A)にとって不都合な要求だとして、A´(A)はB´(B)に次第に圧力をかけていく。この時点で「自治」は崩壊寸前の状態だが、話し合いによる事態の打開ができないと見る(決めつける)や、A´(A)は、B´(B)に要請させて(そのための立法もおこない)、暴力(警察力)を自治空間に投入する。本来自治空間の構成員であり、しかもそこでの決定権をもつB´(B)は、A´(A)の言いなりになるか、沈黙を決めこむか、だ。A´(A)が「合法的」に専有する圧倒的な暴力装置の行使によって、C´(C)は自治空間の片隅に追いつめられる。

メディアでは、東大安田講堂のうえから火炎瓶が投げられる映像が繰り返しながされ、そもそもの問題の発端、背景が消し去られていった。抗議、抵抗した学生は退学、除籍処分や刑事罰など、それなりに責任をとった(とらされた)が、B´(B)も、A´(A)も無傷のままだった。何の責任もとらなかった。かれらはいつも「正しく」「合法的」だったらしい。
私(当時学部生)の知りうる範囲でも、何人もの院生たちが研究者の道を断たれ、またみずから断った。大学に残った者も、反抗したぶんだけ講座制のボスである教授たちのパワハラに耐えなくてはならなかった。去るか残るか、どちらが正しいかということではない。それは計算のできない、実存的な問いである。どちらを選んでも付いてまわるものはある。香港にとどまるか、外国に移住するかと並べては不謹慎かもしれないが、そのひと一人の問題としては、他者の関与できない重い選択であることに違いはない。

現在も「大学で何を、なぜ学ぶのか」、「学問研究とは何か」、いやそもそも「大学とは何か」を問い続ける学生、研究者はいるはずだ。「大学の意思決定(例えばカリキュラム)への学生参加」を要求した私たちも、同時にそうした「答えのない問い」をかかえていた。答えのない問いを問う私たちは、ずいぶんとバカにされ、無責任だとののしられたものだが、合理や計算だけで人は生きているのではない。それは、天に唾を吐くような行為だったが、返ってくるものの苦さも知らされた。背負いきれない「問い」は、繰り返しおのれの今に返ってくるのだ。唾を吐いてみなければ、その味はわからない。

(つづく)


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