1970年  香港からの励まし(3)

(前回のつづき)

香港の運動をつたえるツイッターで、下のような報道写真を見た(西日本新聞に掲載されたらしい)。



この写真を香港理工大学の構内で撮影した日本のカメラマンは次のように、そのときの状況について説明している。
「香港理工大の構内入り口で、高熱を出して苦しむ若者(右)に黒シャツの勇武派の若者が寄り添っていた。(私は)見るに見かねて、(同僚)Мと自分で『外には救急隊がいる。もういいんじゃないか』と諭すと、迷いが吹っ切れたのか、黒シャツの若者は立ち上がった。そして、仲間の身体を支えながら歩き始めた。」(2019年11月20日)

もちろん、二人が歩いていく先には警察機動隊の非常線が張られている。そこへ向かって二人は歩いていく。そのまま逮捕されるのである。
 この写真を見ていると、こみ上げてくるものがある。香港のこの二人に比べることはできないが、私の「街頭」にも「二人」の出来事があった。それが思い出されてしまうのだ。

1970年6月14日夕方だったか、日米安保条約自動延長に反対する、数万規模の大きな集会が東京の代々木公園であった。政党(社会党、共産党)、労働組合、市民、学生が集まり、集会後、それぞれ、国会をかすめるコースで解散地点の日比谷公園へ向かった(少なくとも学生団体はそうだった)。
全国の大学闘争は前年秋にほぼ「制圧」され、党派組織のなかにはより暴力的な闘争に傾斜し先鋭化していくものもあった。かれらはこの「平和」的な集会には参加せず、東京の各所で機動隊と散発的な衝突を繰り返していたように記憶する。のちに私たちのデモは規模が大きいだけの「壮大なゼロ」だと、かれらに揶揄されることになる(別に腹も立たなかった)。

前日、東京の某大学で14日のデモについて打ち合わせがあり、東京の大学連合のデモ隊と関西の大学連合のデモ隊でかなり大人数の隊列をつくり、行進することが決まった。デモには、隊列をまとめ先導する指揮者がいる。平和的なデモでもそうだ。どういう経緯だったか、私は関西隊の指揮者(複数)のひとりになっていた。「デモ指揮」は一番先頭にいて指揮をする関係上、デモ規制をし、あるいは阻止線をはる機動隊とたえず「接触」することになる。はっきり言えば、たえず、写真をばちばち撮られ、小突かれ足蹴にされる。そんなことが、青山通りを進んでいるあいだじゅう、ずっと続いた。
赤坂見附を右折し日比谷方面に向かい、永田町の国会議事堂が遠くに見えた。機動隊に殴られるので眼鏡は外していたので、ぼーっとしか見えないが、国会に通じるほうの広い道は、道幅いっぱい機動隊の阻止線が張られている。もちろんそちらへ行けば、申請したデモコースから外れることになる。
そのとき、よこに並進してきた東京のデモ隊の指揮者と目が合った。彼の目も「阻止線のほうへ行こうぜ」と言っている。関西隊の先頭集団も「行こうぜ」と目で告げている。みんな、安保条約が成立するのはわかっているのに、こんな反対デモをしている「やるせなさ」を感じていたのだ。国会ではその条約を覆せなかったが、せめてそれに反対する意思をかたちにしたい。笑われるだろうが、それは一歩でも国会のほうに近づくことだった。
学生たちは、小学生の中高学年のころにあった60年安保闘争をうっすら覚えていた。条約を阻止するため国会に突入した学生デモに警官隊が襲いかかり、ひとりの女子学生が殺された。「樺美智子さん」(東大文学部)という。デモ隊のみんなも、そのとき、その場所で彼女の名を思い起していたことだろう。

(つづく)


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