Sくんのこと  香港からの励まし(4)

(前回のつづき)

デモ隊が公安員会に申請したコースをはずれ、盾の並んだ阻止線に向うや、規制に入った機動隊とのあいだで衝突が起きた。デモ隊の先頭集団がくずれ、ヘルメットや身体のどこかが警棒でたたかれる「ボコッ」「ボコッ」という鈍い音があちこちで聞こえた。デモ隊と機動隊がごちゃごちゃになって、何が何だかわからない混乱がしばらく続いた(このかんの記憶はない)。気づくと、私は両腕を左右二人の機動隊員にがっちりと押さえられていた。長いデモコースのどこかでこうなるだろうと思っていたので、動揺はなかった。おかしなことだが、「これで自分のやるせなさにも始末をつけることができる」というような「安堵感」さえあった。
機動隊員に両脇をかかえられたまま、私は装甲車のほうに連れていかれた。そこには同じく検挙された三人の学生が先に来ていた。そのなかに、私と同じ大学から来ていた顔見知りの学生、Sがいた(かれの名前はあとから知ったのかもしれない)。顔を見合わせ、おたがい一瞬笑い合ったと思う。「お前もか」という笑いだ。やがて機動隊員と並んで「記念写真」(証拠写真)の撮影が装甲車のまえで始まった。

そのとき突然どうしたのか、Sが、私を指さし指揮官に向って、「その学生は関係ない人です」と強い口調で訴えたのだ。一瞬私は何のことかわからなかったが、指揮官は、私を取り押さえている機動隊員に解放するようにと指示した。事態をまだよく呑み込めない私に隊員は「早く行け」と命じた。振り返ると、Sは写真を撮られているところだった。私のほうを見て、また一瞬笑ったように見えた。私は、先に進んでいるデモ隊を追いかけた。

Sは、その後、14日間、東京の某警察署に留置されたのち、幸いなことに不起訴処分で釈放された。そのかん、先に大学にもどった私は、中部地方の高校で教師をしているSの父親あてに手紙を書いた。差しさわりのない範囲でだが、ことのあらましや、「Sは間違ったことをしたのではない。東京の救援団体が弁護士の接見や差し入れなどの手配をしてくれている」などと、少しでも安心してもらおうと、親の気持ちもよくわからないまま手紙を出したのだった。
大学にもどってきたSと何を話したのか、よく覚えていない。だが、再会するまで、Sのことはよく考えていた。ひとことで言えば、この世にはこんな人間がいるのか、という衝撃だった。検挙されたときおたがい笑い合ったはずだが、そのときSはすでに次の行動を考えていたのだ。考えるというより、身体が反射的にそう動いていた。それはとても自然なふるまいであり、指揮官も思わずそれに飲まれたのだと思う。それに引き換え、このオレはなんたる体たらくか。検挙されて呆けたようになっていたのだ。
再会後、以前より親しく話すようになった。Sが私のことを「友」と思っているかどうかは知らない。私のほうも、Sに「あのときは助けてくれてありがとう」などと、そんな軽い言葉、というかあのときの心的事態のすべてを言いきれていない言葉は口がさけても言えなかった。
Sはその後、大学を中退し、私は寄り道しながらも大学を卒業した。10数年まえ、共通の友人の葬儀でほんとうに久しぶりにSに会った。葬儀が終わり、かつて籍をおいた大学近くに出て少し飲んだ。寡黙で、優しい男だ。もう一度、それを確認した。

香港理工大の構内から、友を支えながら非常線に向って歩いていく「勇武派の黒シャツ」姿の青年が、夜の国会前でのSに重なる。



何か、自分で選んだわけでもない向こうからやってくる契機が、ひとの生に、そのとき、その場でしかありえない何か、生きていくうえでの核(のひとつ)となってしまうような何かを、思いがけないかたちで刻印することがある。そうした無数の小さなドラマが、生活圏のそこかしこにちりばめられている。「街頭」は特権的な場所ではない。それは、オフィスワーカーたちの「昼休み集会」のなかにも、もっと広い生活圏のなかにもある。それを上の写真はぬっと突き出して見せてくれた。

昼休み集会のオフィスワーカーにも、二人の青年にも、かける言葉は見当たらない、ただただ、この私が励まされるばかりだ。


(ひとまず、「香港からの励まし」は終わりにします。)


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