”京都慕情”
きのう(1月12日)の昼どき、テレビをつけると「全国女子駅伝」の中継をやっていた。はじめは「中学生なのにすごい走りやな」なんて思いながら見ていたが、やがてレースそのものより、画面に映る通りや沿道の家並みのほうに目が向いている自分に気づいた。「この辺をよくほっつき歩いていたなあ」とか、「よく通ったあの飲み屋、いつもカモにされてたあのパチンコ屋はまだあるのだろうか」とか、そんなふうにテレビを見ている。きっと私と同じように、それぞれの幻影をさがしてその中継を見ていた人も多くいたにちがいない。
休学や留年で長い学生時代をその街ですごした。卒業後も定職にもつかず(つけず)、学生生活の延長みたいな暮らしをダラダラと続けた。ささくれ立ち、すさんだ日々があった。だから、「よく通った飲み屋」といっても、「友と語らった懐かしさ」などとよべるものがそこにあるわけではない。情けなく、野蛮な出来事が思い出されてくる。楽しいこともあったはずなのに、そうした苦い思い出のほうが「駅伝」中継に触発されて起き上がってくる。
「今となっては懐かしい思い出」と言えるのは、その思い出される「過去」がその人の精神において「今」ともう切れている、それが現在の生々しい「課題」とは結びつかない、という場合だろう。その点でいえば、この私など、いや誰にもあることだろうが、なかなか終わったことにはできない「過去」を「今」になお引きずっている、同じ強度ではないにせよ、なお「現在進行形」であるのか。強度は失われても、その重量はかえって増していくのか。学生時代のことであれ、その後のことであれ、手放しで「懐かしい」と言うことをためらわせることがある。そういう無様な「過去」こそが、この「自分」の「今」をかたちづくっているものだからである。どんなに無様なものであれ、その「過去」を「懐かしい思い出」のほうへと追いやれば、自分の「今」が否定される。
気づくと、駅伝中継は最終走者が西京極競技場のトラックに戻ってきたところを映していた。ぼーっと、2時間ほどテレビの向こうに「幻の京都」を重ねて眺めていたわけだ。やれやれ…。レースのほうは、後半に猛烈に追い上げた京都チームが優勝した。
(↓ 下の写真は京都市電が廃止される直前、1970年代後半のものか。市電6系統が走っていた東大路と叡電が交差する「叡電前」(叡電の駅名は「元田中」)にあったパチンコ屋の看板も一瞬見えた。「祇園」の停留所とそこから「東山安井」にかけての登り坂の写真もあった。そこを一気に加速して市電が登っていく、この坂とその裏通りも好きだった。ところで、渚ゆう子の「京都慕情」…自分が振られたことをあきらめられない、いじいじと引きずるのは、むしろ男性のほうだと思う。歌詞は男性作詞家のファンタジーでしょうね。)
(↓ 下の写真は京都市電が廃止される直前、1970年代後半のものか。市電6系統が走っていた東大路と叡電が交差する「叡電前」(叡電の駅名は「元田中」)にあったパチンコ屋の看板も一瞬見えた。「祇園」の停留所とそこから「東山安井」にかけての登り坂の写真もあった。そこを一気に加速して市電が登っていく、この坂とその裏通りも好きだった。ところで、渚ゆう子の「京都慕情」…自分が振られたことをあきらめられない、いじいじと引きずるのは、むしろ男性のほうだと思う。歌詞は男性作詞家のファンタジーでしょうね。)
ところで(前置きが長くなってスミマセン)、年末に何を思ったか、書棚に長く眠っている『源氏物語』を読んでみようかと手にしたものの、「須磨がえり」どころか、「夕顔」で早くも挫折した。その代わりというわけでもないが、教科書にも取り上げられることもある(あった?)詩人の小野十三郎(1903-1996)の本が同じ書棚にあったので取り出した。小野には次のような詩がある。
「拒絶の木」
立ちどまって
そんなにわたしを見ないで。
かんけいありません、あなたの歌にわたしは。
あなたに見つめられてる間は
水も上ってこないんです。
そんな眼で
わたしを下から上まで見ないでほしい。
ゆれるわたしの重量の中にはいってこないでください。
未来なんてものではわたしはないんですから。
気持のよい五月の陽ざし。
ひとりにしておいてほしい。
おれの前に
立つな!
「かんけいありません、あなたの歌にわたしは」。「あなたの歌」とは何か。少し考えてみたい。
(つづく)
コメント
コメントを投稿