特攻と”打ち水”と 小野十三郎(3)
(前回からのつづき)
「外界から遮断された密室」(堀切直人)のような場所で生息している私は、ときおり誰かのツイッターをのぞいて(私はしていないが)、外界の空気をすこし吸ってみることがある。先ごろ、ある人(X)のツイッターを見たら、Yというひとの、次のようなツイートを引用し、批判していた。
(Yのツイート) 特攻隊は犬死にや無駄死と心ない事を言う人達がいる。日本という国を最後まで守ろと、愛する家族や子孫が辛い目に合わぬよう身をもって防いだ若者がいた事に気づかないフリをしている…英霊に感謝と敬意の気持ちをいつまでも持ちたい。英霊が守ってくれた日本を私も守っていきたい。
(Xの批判ツイート) 人の生死をこうやって「国のため」に「意味」が有る無いというのは、幸いにして生き残った者たちの傲慢さの表れ。人はその人固有の動機付けによって生きそして死んだのであり。他の何ものでもないのだ。「無駄ではない」という時、国を持ち出さないと人固有の意味を見出せないのがおかしいのだ。
XとYとを並べたとき、少なくとも私はYの考えかたはとらないが、かといってXの論じ方もまたしっくりとこない。どっちもどっちと、高見に立っているわけではない。
まず、Yの議論については、前々回の記事に書いた、「家族も、さまざまな社会集団も、地域も、国家も、この社会では、情緒共同体としての『ひとつの歌』=『あなたの歌』に唱和することを、ときには無言で(真綿で締め上げるように)、ときには大声で(暴力的に恫喝し)求めてきた」を繰り返せばすむだろう。
一方、Xについては、個の絶対性を根拠に「ひとつの歌」の虚構を批判しているものの、絶対性という語りえないものを前提においている点で、Yを対話に呼び込むことは難しいだろう。
小野十三郎の択んだ、「ひとつの歌」に背を向け、物質としての工業地帯の「風景」を凝視するという方法論にならうなら、まず「特攻」という作戦の有効性、実効性が問われるべきである。もちろんパイロットたちには孤独のなかその極限を生きる精神があったわけだが(いや、耐えられず与えられた覚せい剤をうって出撃した者もいたというが)、だからといって、それが作戦として立案され実行されたという「形而下」(物理学)を不問にしてはならない。立案者たち、推進者たちの思考と判断根拠を問わなくてはならないだろう。
急降下する戦闘機には空気抵抗を生じる翼がある以上、「特攻機」による破壊力は「爆弾」投下に比べ数段劣るという物理学的な欠陥をそもそも抱えていた作戦だった、と指摘したのは大岡昇平であった(『レイテ戦記』)。特攻作戦が敵に与える損害と特攻機やパイロットの「予定された損失」との、戦略上の「損得」勘定、つまりその作戦が戦局の劣勢を挽回しうるほど実効性をもつものだったのか、勝たねばならない作戦としてその発動には合理的な根拠と物資的基盤があったのか、……等々の「なぜ」が、問われなければならない。特攻は何かの「象徴」でもなければ「譬え」でもない。それぞれの自己にとって都合のよい「形而上」のストーリーを投影するまえに、それが軍事作戦として妥当なものであったのかどうか、冷めた頭で物理計算、物資計算をまずきちんとすませておかねばならない。パイロットたちの精神をどう救い出すかは、そのうえでの話である。
ところで、この夏には国際スポーツ大会が開かれる。膨れ上がった予算や(その一方での「ボランティア」の動員や)、巨大化したスポーツビジネスのからくりや、酷暑の季節に野外で競技することの非合理性…などなどは不問にされたまま、すべては動き出したら止まらない(止められない)。挙句に「競技コースに打ち水を」などと真顔で提案する「偉いさん」まで出てきたのが、私たちの「現在」だ。それらを見聞きするたびに、めまいのするほどの既視感をおぼえる。
(つづく…話がどんどん重くなってきました。読んでくださるかたもしんどいことと思います。「小野十三郎」は次回で終わりにします。)
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