戦時下のユマニスト 渡辺一夫(4)

戦時期にあって、渡辺がラブレーやエラスムスについての研究を続けていたのは、当時、日本社会を蔽いつくしていた「聖戦」「悠久の大義」「国体護持」「一億玉砕」等々といった「狂気」の嵐に呑み込まれず、たとえ半歩でもその手前で踏みとどまろうとする営為であった。研究のための研究ではな

 当時、東大医学部の学生でありながら、仏文の授業や同大文学部仏文研究室に出入りしていた加藤周一は、自己にとっての渡辺一夫という存在について、次のように書き記している。

 「(当時、仏文研究室で)私がいちばん強い影響を受けたのは、おそらく、戦争中の日本国に天から降ってきたような渡辺一夫助教授(1942年に就任)からであったにちがいない。渡辺先生は、軍国主義的な周囲に反発して、遠いフランスに精神的な逃避の場をもとめていたのではない。……日本の社会の、そのみにくさの一切のさらけ出された中で、生きながら、同時にそのことの意味を、より大きな世界と歴史のなかで、見定めようとしていた

……(渡辺が研究していたフランス「一六世紀」は)宗教戦争の時代であり、異端裁判の時代であり、観念体系への傾斜が『狂気』にちかづいた時代であって、従ってまた何人かのユマニストたちが『寛容』を説いてやまなかった時代でもあった。すなわち、遠い異国の過去であったばかりでなく、また日本と日本をとりまく世界の現代でもあった。」(加藤周一『羊の歌』)

 加藤は、その時期に渡辺と出会っていなければ、「果たして私が、ながいいくさの間を通して、とにかく正気を保ちつづけることができたかどうか、大いに疑わしい」とまで述べている。

 では、渡辺一夫その人は、戦時期の自身についてどのように語っているのだろうか。

「第二次大戦中、私は恥ずべき消極的傍観者だった。そして、先輩や友人によくこう言って叱られた。『もし君の側で君の親友が敵の弾で殺されても、君はぼそぼそ反戦論を唱えるかい!』『敵が君に銃をつきつけてもかい!』と。僕は、その場合殺されるつもりであったし、ひっぱたかれても竹鎗で相手を突くつもりはなかったから、友人の思いこみを、解きほぐす力がなかった。『困るな!』と言うだけであった。……戦時中、僕は爆撃にも耐えられた。しかし、親しい先輩や友人たちが刻々と野蛮になってゆく姿(*)を正視することはできなかった。二度とあんな苦しい目はいやである。そして、人間同士をこのような『困る』状態に陥らせる戦争は、目下平和の間に、各人が全力をあげて防止せねばならない。」(「人間が機械になることは避けられないものであろうか?」1948年、『狂気について』所収)

 (*) 渡辺は、「(人間が)野蛮になってゆく姿」という語を、「思想・制度・機械……など、人間がつくったいっさいのものが、その本来もっていた目的からはずれて、ゆがんだ用いられ方をされるようになり、その結果、人間が人間のつくったものに使われるような事態に」立ち至ってしまった状態、という意味で使っている(『ヒューマニズム考』)。中世の神学論争も、「神」の名の下で起きた新旧両派の宗教戦争も、そして「大義」をかかげた戦争も、人間を「思想・制度・機械」の奴隷にするものであった。だから、時代や場所のちがいを超えて、「それは人間であることとなんの関係があるのか」と問いかける声が起こるのである。

しかし、ユマニスムの声は、かぼそい。「野蛮な機械」となって突っ走る人たちの大声にかき消されてしまう。「親しい先輩や友人たち」であってさえ、もはや渡辺の声に耳に留めようとはしなかった。しかしそれでも、渡辺は、時代の大合唱のまえで「困るな」とつぶやくのをやめなかった。その小さな「正気」をかろうじて保ちつづけた(保とうとした)。その背中を押してくれていたのが、16世紀のユマニストたちの思索とその言葉であったろう。

渡辺はこの時期の自身と日本のありようについて、別の文章で、次のようにも書いている。

 「既に東大文学部に奉職していた私は、戦場へは駆り出されなかったが、空襲と告発とに怯えながら、戦々兢々としていた。自警団的な偏狭と狂信とが歓呼の声に包まれ、洋書を読むことは「非国民」的とされていた……東京にも焼野原が拡がっていた。そして、大きな茸雲が二本立ちのぼった。「軍国」日本は一夜で「文化国家」に早変りし、我々国民は「一億総懺悔」して「一億文化人」となり、アメリカ占領軍からベーコンを配給され、天皇陛下からは、「万邦に比類なき」「神格否定詔書」をいただいた。」(「老耄回顧」、渡辺の自叙伝的短編。『狂気について』所収)

 日本が降伏したこと=戦争が終わったことは、ごく一部の人たちを除けば、大きな混乱もなく受け入れられた。敗戦にあたって、自死した軍人は579名、民間人(在東京)は39名、多くは超国家主義団体に属する人たちだったという(鶴見俊輔)。進駐する占領軍に対する武力抵抗もなく、それどころか日本の警察・憲兵隊が、進駐する連合国軍の車列を沿道で警備するため動員された。その銃口は今度は日本の人びとのほうへと向けられて(向けさせられて)いたのである(当時の記録フィルムなどで確認できる)。

渡辺にとって、戦争が終わったことはもちろん歓迎すべきことであった。しかし、「「軍国」日本は一夜で「文化国家」に早変りし、「一億玉砕」を叫んでいた我々国民は、「一億総懺悔」して「一億文化人」とな」った、その自己省察を欠いた変わり身の早さを目にするとき、戦時期以上に、「困った!」のつぶやきがその口をついて出てきただろう。自己を特権的な場所におくことなく、「第二次大戦中、私は恥ずべき消極的傍観者だった」という痛切な自己省察から離れることはなかった。

 

(つづく)

 

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