福沢諭吉「脱亜入欧」 敗戦記念日をまえにして(4)
福沢諭吉の唱えた「脱亜入欧」論について、それは植民地主義だとか侵略主義だとかいう批判がつきものだが、竹内好はもうすこし丁寧な議論をしている。まずは、有名な脱亜論の一節を引くと…。
「我国は隣国の開明を待って共に亜細亜を興すの猶予あるべからず。むしろその伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし……悪友を親しむ者は共に悪名を免かるべからず。我は心において亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。」(『時事新報』1885年、無署名記事だが福沢が書いたとされる。)
この福沢の「脱亜論」について、竹内は次のように述べる。少し長くなりますが…。
「(福沢は)日本がアジアでないと考えたのでもなく、日本がアジアから脱却できると考えたのでもない。……福沢が思想家として生きた時代は、日本が植民地支配化の現実の危険にさらされていた時期から、日本が不平等条約を撤廃して実質的な独立をかちとることを基本国策とした時期にかけてであって、彼にとって『西洋の文明国と進退を共に』するのは、この目的のための選択をゆるさぬ唯一の手段であった。彼において、国の独立という目的と、その目的実現の手段としての、文明の自己貫徹という法則(文明への流れの必然性)への服従とは、見事な緊張関係を保って並存している。
……
(しかし、日清戦争の勝利の後)国の独立の基礎が固まるにつれて、福沢において内面的緊張の下にあった目的(国家の独立)と手段(脱亜入欧)の関係がゆるみ……『悪友を謝絶する』ことが独立と無関係に目的化され、『亜細亜を興す』方はこの目的に従属化されるようになった。
……(植民地化の)危機感が弱まるにつれて、日本人の対アジア認識は、政府も民間も、急速に能力が低下した。」(「日本とアジア」1961年)
竹内の議論にしたがえば、福沢の「脱亜入欧」論における目的と手段が転倒した時期から、当の福沢だけでなく、日本社会(日本人)における、アジア蔑視意識=アジア支配の正当化の論理、漱石の言葉では「一等国」意識が出てくる。それはまた「日本人の対アジア認識」の劣化を意味した。なぜなら、自分の偏見を投影した「アジア」(「遅れたアジア」!)しか見ないところから、正確な他者認識が得られることはないからである。そして、偏見に曇らされて他者が見えないとき、それはまた自分自身も見えていないということになるのだが、日本社会はそのことに気づいてはいなかった。繰り返せば、自他が見えていなかったからこそ、あの無謀な戦争ができたのだ。
日本の敗戦後に、ある知識人は、「戦争に流されてしまった自分」をかえりみて、次のように述べている。(以下の引用は、竹内好「近代の超克」1959年からの孫引きです。)
(文芸評論家・亀井勝一郎)「満州事変以来すでに数年たっているにも拘らず、『中国』に対しては殆んど無知無関心ですごしてきた…アジア全体に対する連帯感情といったものは私にはまるでなかった。日清日露戦争から、大正の第一次大戦を通じて養われてきた日本民族の『優越感』は、私の内部にも深く根をおろしてたらしい。」(1958年4月号『文学』)
もう一人、日中戦争で戦死した一兵士・板野厚平の遺稿集に序文を寄せた作家・阿部知二の述懐も引用しておこう。
(作家・阿部知二)「恥をいうことにもなるが、そのころ(1931~41年)の私は、漠としたファシズムへの嫌悪や戦争への恐怖をいだいていたとはいえ、それらを歴史的に分析し、その正体をとらえる思想力をもたなかった。たとえば、戦争とはどんな形の社会にもどんな時代にも行われるもの、またその勃発はほとんど天災地変のようなもので、どうすることもできないもの…そのように感じているばかり…」(同前)
ここに、亀井勝一郎と阿部知二の自省を引用したのには、理由がある。
一つは、初期の福沢において手段であった「脱亜論」が目的化され、それが国家の自画像にまでなったたとき、それはどのような影響を社会全体に与えたのか、の例証となっているからである。それは、亀井の自省「『中国』に対しては殆んど無知無関心ですごしてきた…」に明らかである。引用したもう一つの理由は、二人の「優等生」(東京帝国大学出身者、亀井は左翼運動にかかわり中退)の躓きを見ることで、つまり日本社会の躓きはどこにあったのかについて考える手がかりになると思ったからである。とくに、阿部知二の「漠としたファシズムへの嫌悪や戦争への恐怖をいだいていたとはいえ、それらを歴史的に分析し、その正体をとらえる思想力をもたなかった」にそれはよくあらわれているのではないか。
ところで、話は大きく変わって…。
先日、昼食後、何となくBS1を付けたら、私の好きな『地球タクシー』という番組をやっていた。今回のは、コロナ禍の東京で新たに取材したものを放映していた。そのなかで、大学を出て2年目というドライバー(Aさんとする、茨城出身、女性)が登場した。「どうしてタクシードライバーになったんですか?」という質問を受けて、Aさんは、おおよそ次のようなことを答えていた(以下、要約)。
「中学一年のとき、Kpopにはまった。その頃からひとりで韓国語の勉強を始めた。大学でも韓国語を勉強した。しかし、留学費用がなく韓国の大学には行けなかった。だから、いまその費用を貯めるためにこの仕事をしている。コロナで収入が減ったので留学はもう少し先になりそうだ。向こうに行って韓国語をもっと勉強して、将来は韓国ドラマとかの翻訳の仕事をしてみたい。」
「日本の近代」、そしてそれと不可分であった戦争をめぐって、この半年近く読書ノートをおりおりにまとめ、私なりに考えてきたが、それもあってか、私の目はともすれば、「過去」と、それを引きずった戦後日本の(私にとっての)「否定的現実」のほうに向きがちであった。しかし、ハンドルを握りながら自身の夢を語るAさんの言葉に触れたとき、彼女は、たとえば亀井勝一郎の「脱亜論」的世界地図なんか、するりと超え出た場所に立っているなあと、素直に羨ましく、また(他人事ながら)嬉しく思った。そして、この社会には、きっとたくさんのAさんたちが、いま、この時を生きているだろうことを思い、かえって励ましをもらった思いだ。
私も、ともに「いま」を生きねばならない。
(おわり)
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