ノーマン「自由な人間は他人を支配しない」 敗戦記念日をまえにして(1)

(前置き)

この半年くらいのあいだ、日本の近代と「戦争」、あるいは「戦争」という時代にあぶり出された日本社会のありようをめぐって、先人たちが考え論じた文章を「読書ノート」という形でメモしてきた。自分に向けた備忘録であるため、整理されておらず読みにくいものになっていたと思う。読んでくださったかたには、その点をお詫びしたい。

今夏で75回目の「8・15」を迎える。読書ノート「戦争と『弔い』と」で確認したように、戦争のなかのひとり一人の死を「戦没者」として一括りに「追悼」することは、死者の統制となりかねない。さらには「追悼する」一人ひとりをひとつの「追悼共同体」に囲い込むことは、生者の統制ともなりかねない。そうしたことを意識しながら、今回の「敗戦記念日をまえにして」(1)から(4)をもって、「戦争」をテーマにした読書ノートはひとまず終わりにしたい。

 

バート・ノーマン(1909-1957)という歴史学者がいた。

ノーマンは、父、ダニエル・ノーマン(カナダ籍)が長野で宣教師の活動をしていた関係で、1909年に軽井沢で生れた。神戸のカナディアンアカデミーを卒業後、カナダに渡り、トロント大、ケンブリッジ大(日本史・中国史研究)などを経て、1939年にカナダ外務省に入省。同年、ハーバード大学からPh.Dを受けた。1940年、駐日公使館の語学官として着任。41年12月、太平洋戦争開戦により、カナダ公使館内に抑留後、翌42年7月、交換船で離日。カナダ外務省で「対日戦争関係情報の分析」に当たる。日本の敗戦にともない来日し、占領軍「対敵諜報部調査分析課長」となって日本の民主化のために尽力する。のち、米国の「赤狩り」(マッカーシズム)の影響を受けさまざまな嫌疑をかけられる。1957年、エジプト駐在大使として着任後、自殺。

(以上は、『ハーバート・ノーマン全集』第四巻末尾の「年譜」による。)

 

そのノーマンに、『日本の兵士と農民』という著作がある。開戦による拘留の混乱のなか原稿を失ったが、カナダ帰国後に、持ち帰ったノートをもとに再著述し、1943年にカナダで刊行した。そして戦後、1947年に日本語版が出た。本のテーマについて、その「はしがき」には、近代日本の「一般的徴兵制を導入することを決定した、その歴史的環境を手みじかに検討したものである」と記されている。

この本のなかにある、有名な次の一節を紹介することにしたい。 

「(明治期以降)日本の新しい産業家たちは、気ぜわしげにその若い産業と銀行の市場や投資の場を探し始め、軍国主義者らは市場と植民地を求めて自ら進んでアジア大陸に押し渡っていった。この侵略行動において、一般日本人は、自身徴兵軍隊に召集された不自由な主体(エイジェント)でありながら、みずから意識せずして、他の諸国民に奴隷の足かせを打ちつける代行人(エイジェント)となった。他人を奴隷化するために真に自由な人間を使用することは不可能である。反対に、最も残忍で無恥な奴隷は他人の自由の最も無慈悲かつ有力な強奪者となる。」(同書、「一八 日本の軍国主義」)

 

まず、この著作のもととなった論文が、先にも触れたように、日中戦争が長期化し、国家総動員法ほかによって日本社会全体の統制管理が一段と厳格化された状況下(太平洋戦争開戦直前)で構想され執筆されたという緊迫感を理解しておく必要がある。その意味で、この論文は、外から観察した単なる「日本研究」ではない。また、日本をよく知る人だからこそ、日本の人びとに対して、いささか厳しい「直言」を述べているということも確認しておきたい。「親日家」とは、本来、日本の人びとにとって「心地よいことば」を並べ立てる人のことを言うのではない。

 私が、上の一節のなかで注目したのは、というより、ガツンとやられたのは、「他人を奴隷化するために真に自由な人間を使用することは不可能である」の一文だ。 

これを反対に言い換えれば、「真に自由な人間は他人を奴隷化などしない(できない)」ということになる。「奴隷化」という語を「支配」という語に置き換えれば、だれかを支配する(しようとする)人間は「自由」からもっとも遠い存在である、ということになる(ヘーゲルの「主人とドレイ」の話?)。

しかし、ノーマンは人間一般の話をしているのではない。かれがそこで論じているのは「一般日本人」の問題だ。また、直接的には「兵士」について議論しているが、それはまた軍隊以外のさまざまな組織における「一般日本人」にも適合することなのかもしれない。日本の読者は、いまなおノーマンから「あなたは真に自由な人間ですか」と問われているのではないか。

ノーマンは、『日本の兵士と農民』の最後を次のように結んだ。すでに日本の敗色が濃くなっていた頃(1943年)である。

 「日本人は、封建制度打倒の決定的な時に、自らの自由を確保することができなかった。かれらの解放の時は、民主主義諸国民の兵力が日本軍を打ち破り、ついで日本の征服からアジアを解放するという第一義の任務に加えて、日本国民自身がこれまであまりに誤導されかつ微力であったため独力で達成できなかった自由と解放を確保するのを援けるまで、延ばされなければならないであろう。」

 

ノーマンは、上のように、アジア太平洋戦争の性格とそのゆくえをほぼ正確につかんでいた。

ところで、ここにある「封建制度打倒の決定的な時」とは、明治維新直後の時期をさす。「維新後の数年間には、主として農民、村民による激しい、またしばしば血腥い一揆が怒り、まだ残っていた封建的不正の旧い重荷と、明治政府の課した新しい重荷をとりのけようとしたのである」と、ノーマンは別の箇所で書いている。しかし、明治政府の弾圧、農民側の力不足などによって、日本人は「自らの自由を確保する」機会を逸してしまった。「独力で達成できなかった」日本の市民革命は、「民主主義諸国民の兵力(連合国軍)が日本軍を打ち破」るときまで「延ばされなければならな」かった。言い換えれば、敗戦によって国家の統治機構が解体するという決定的なときにも、おそらく日本の人びとは市民革命をふたたび「独力で達成」できないだろうと、ノーマンは予測していたのである。そして、事実、そのとおりに事は進んだ。

それはどうしてだろうか? 次回に紹介する竹内好の議論をとおして考えたい。

(つづく)

コメント