滝川事件と久野収 『土曜日』をめぐって(2)

(前回のつづき)

『土曜日』は、京大の滝川事件(1933年)のさい、学問の自由・大学の自治を守る運動にかかわった若い研究者たち(中井正一など)が発行していた雑誌『世界文化』と、同じく京都の映画制作関係者(松竹下加茂(下鴨)撮影所の斎藤雷太郎など)の雑誌『京都スタヂヲ通信』が合流してできたという経緯がありました。
そこで、まずその当時(1930年代半ば)、『土曜日』の創刊に尽力した人たちがおかれていた状況や、そのなかで考えていたことをすこし確認したうえで、『土曜日』の記事内容のいくつかを紹介してみたいと思います。記事の時代背景、社会背景も理解できると思うからです。

『土曜日』の編集に関わった一人に、哲学者久野収がいました。当時は京大哲学科の学生で、『土曜日』の中心にいた中井正一の後輩にあたる人です。中井は1900年生まれ、久野は1910年生まれですから、久野は中井より10歳年下です。滝川事件(→ ウィキペディア)当時(1933年)、中井は哲学科の助手(翌34年に講師)、久野は哲学科の最終学年でした(当時の大学は3年制)。

滝川事件は、京大法学部教授滝川幸辰(たきがわ・ゆきとき)の刑法理論を「危険思想」視した文部省(大臣は鳩山一郎)が33年5月に休職処分にしたことをめぐって生じた一連の出来事をいいます。この処分に対してまず法学部教授会が学問の自由、大学自治を侵害するものだとして反対し、法学部の学生をはじめ他学部の学生もこれに応じて抗議活動を展開し、さらにその運動は学外にも広がりました。結果的に同年7月に7名の教授が免官となって「事件」は終息し、運動も夏休みになって退潮していきます。
その抗議運動のなか、文学部で学生たちを組織したのが中井や久野らでした。久野収は自由にものが言えるようになった戦後(1955年)に、かれがその内側で経験した滝川事件について次のように書いています。


(日中戦争にむかう)過程の中でも昭和八年は、特に大きな区切りを示す事件のおこった年であった。ドイツにおけるナチスの勝利は、この年の三月に決定的となり、滝川教授の強制免官を動機とした京大事件は、この年の五月に勃発した。それは、その後一〇年におよぶファシズムの決定的支配を何よりもはっきりと予告する次元であった。
 幸か不幸か、私が最後の学生生活をこのような時期の中ですごさねばならなかった。それでファシズムの勝利と京大闘争の敗北を除けば、学生生活の想い出がほとんどなくなるほど、それは私個人にとっても大きな事件であった。
……
 京大事件の一番目立った特色は、”危険思想”の内容が、もはや共産主義思想やマルクス主義といった嫌疑にあるのではなく、国家の現状を百パーセント肯定せず、いわゆる国策に批判的な態度をとる学者たちの思想内容におよんで来たという事実と、学問の自由の立場からこの事実を国家の将来のために承認することができなかった京大法学部の教授団が、時の政治権力に対して教授会としてプロテストした事実である。
 大学に籍を置く若い学生として、これほど感激するにたる事実がほかに求められるであろうか。事は学問自身の問題にかかわり、しかも教授と学生は、一致して政府当局の不当な干渉にプロテストすることができる。しかもそれは、日本における自由主義の最後の組織的抵抗であることが予感せられた。……
(「”堅冰いたる” ファシズムの勝利と学生生活」1955年、久野収『三〇年代の思想家たち』所収)


これを書き写しながら、時代や社会の厳しさを思えば久野たちの経験と安易に比較してはいけませんが、私は、1968年から70年にかけて全国の大学でたたかわれた「大学闘争」のこと、また、その敗北に追い打ちをかけるように私の在籍した大学であった「教官処分」とその撤回運動のことを思い起こしていました。処分撤回を求める私たち学生は教官たちと「共闘」しようと何度も話し合いをもちました。私は思い立って(怖いもの知らずで)中国文学の大家I先生(1910-1998)に面識もないのに処分撤回を訴える手紙を出しました。処分は大学の意思決定機関である「部局長会議」で了承されてしまいましたが、私たちの問いかけに部局長の一人であったI先生が真摯に応え行動してくださったことはいまも忘れません。久野収と同じ年に生まれたI先生は、京大闘争(滝川事件)を学生時代に経験していたのではなかったかと、うかつなことに、いま思ってみるのです。

さて、「京大闘争」当時、久野収は、主任教授(田辺元)の推薦もあって卒業と同時にドイツのライプチッヒ大学に留学することになっていましたが、ドイツにおいて学問の自由を奪ったナチスの勝利は、また京都にいた久野の留学の夢も奪ったのでした。しかし、アカデミズムのなかでの哲学の道をみずから断った久野は、『世界文化』から『土曜日』を経て、行動のなかで哲学を社会に開いていく活動、久野自身の言葉を借りれば「下からの哲学」の道に乗り出していったのです。

次回から、『土曜日』の記事を少し紹介してみますが、「”危険思想”の内容が、もはや共産主義思想やマルクス主義といった嫌疑にあるのではなく、国家の現状を百パーセント肯定せず、いわゆる国策に批判的な態度をとる学者たちの思想内容におよんで来た」時代に、それらの記事が書かれ公表されたものである、という点を念頭において読んでみたいと思います。

(つづく)



↑)『土曜日』創刊号(1936年7月4日)の「婦人」欄。

「ヴォーグ」記事の紹介が「K子」名で、イラストとともに掲載されている。久野の文章に「協力者」として上がっていた、「デザイナー堀内カツ子」によるものだろうか。紙面下には「洋装店」の広告のほか、フランソアと同じく「音楽喫茶」の広告が並んでいる。

久野によれば、「(『土曜日』の配布網は)書店とともに、当時もいまも隆盛をきわめている喫茶店網を通じてであった点も、影響力の新鮮さと広さを物語っている。当時、私は京都や大阪の喫茶店で、”本日『土曜日』出来”という貼り出しをたびたび目にしたのをおぼえている。」(「中井正一と文化新聞『土曜日』)

『土曜日』の販売価格は3銭。現在の物価でいえば、100円くらいということになろうか。当時、コーヒー一杯が15銭ほどだった(「値段史」)。


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