映画『有りがたうさん』 『土曜日』をめぐって(3)

(前回のつづき)

文化新聞『土曜日』の紙面は全六面、第二号から、各ページの上にカテゴリーが表示されるようになります。どのページにどのカテゴリーが来るのかは、発行号によって多少動きがありますが、おおむね次のような構成です。

一面…表紙。これは前々回の記事に書きました。
二面…「文化」。「文化」とありますが、反ファシズム運動など国際政治に関するものも扱われます。
三面…「婦人」。女性の権利をめぐる話題からファッション論まで。書き手も女性が多いようです。
四面…「社会」。社会問題、労働現場、街の声(投稿)など、幅広く扱われています。
五面…「映画」。映画論、外国映画や日本映画についての批評欄です。『土曜日』が『京都スタヂヲ通信』の流れを汲むものなので、かなり力が入っています。
六面…「趣味娯楽」。発行を重ねるにしたがい読者からの投稿原稿が増え、紙面のカテゴリー名は「くらぶ」と改称されて読者の意見交換の場となります。

さて、『土曜日』で目にとまった記事はいくつもあるのですが、そのなかから私が強く興味をもった記事を二つだけ紹介してみようと思います。
ひとつ目は、「流離の人々 半島出身者の仕事と地位」という見出しのついた記事です。「くらぶ」(六面)に出ていました。その記事なかに次のような映画があることにも触れていました。(以下、引用は現代仮名遣いに直した)。

「松竹の清水宏という監督の作った『有り難うさん』という映画の中には、伊豆半島の山奥で、道路の開通に従事している半島出の同胞たちが、映っている。その映画によると、その人々は崖を切り、山を穿ってやっと自動車道路を開通させたかと思う間もなく、自分たちはそのバスに乗らずに、次の仕事が待っている信州へ徒歩で移って行くのである。峰を渡る人々の白衣の裾が秋風になびく景色が、この映画には撮されていた。」(1936年12月5日号)

記事中に「同胞たち」という語が出てくるので、これを書いたのは朝鮮人読者なのでしょうか。
映画『有り難うさん』(原題は『有りがたうさん』)は、1936年2月27日に公開された映画です。公開日はなんと「2・26事件」発生の翌日。すでに軍国主義へと急傾斜していく時代であり、翌37年7月には日中戦争が始まります。『土曜日』も37年11月に廃刊に追いやられました。

映画は、伊豆半島の天城越えの乗り合いバスを舞台に、追い越しやすれ違いで道を譲ってもらうたびに「ありがとう」と礼を言う運転手(だから、あだ名が「有りがたうさん」)、乗り合わせた旅の女、「身売り」されて東京に向かう娘とその母の、三者の対話を中心に、乗客たちや沿道の人びとの人生の哀歓も織り込みながら話が進みます。いわばその乗り合いバスが日本社会の縮図となって描かれます。
そのなかの一場面として、道路工事に従事する朝鮮人の集団が、上の記事にあるように登場します。この映画の全編(76分)はYouTubeで見ることができますが、この場面だけを切り取った映像もありました(約3分半↓)。




チマチョゴリの娘役は久原良子。運転手役の「ありがとうさん」は上原謙(加山雄三の父)。
伊豆で道路建設工事に従事した、娘を含む朝鮮人集団は、伊豆の現場を終えて次の現場のある「信州」に向かって歩いています。追い抜いたバスが休憩しているところへ追いついた娘は、工事現場で亡くなった父の墓の世話を運転手に託します。そのやり取りのなかに、記事に出てくる次のような娘のセリフがあります。

娘:私たち、自分でこしらえた道、一度も歩かずに、また道のない山へ行って、道をこしらえるんだわ。
運転手:駅までこれに乗って、送って行ってやるよ。
娘:皆と一緒に歩くの。皆と一緒に

その時代の日本社会の諸相、とりわけ庶民の生活相が、静かに、またユーモアも忘れず(深刻ぶらず)、淡々と描かれる好編です。興味をもったかたは、ぜひ全編のほう(→ ここ)をご覧になってください。
思想統制が社会のすみずみに及んでいた1936年、「身売り」や帰村や外国人労働者の存在を取り上げた映画『有りがたうさん』がつくられ、また、それを見た『土曜日』の一読者が「流離の人々」という記事を書いたのでした。こうした人と人のあいだに構成された、「事件」ではない、「出来事」の堆積を抜きに「歴史」というものはどこにもないだろう、と私は思うのです。

そして、私たちの乗り合わせた「バス」はいまどこを目指して走っているのでしょうか?

(つづく)


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