永井荷風『濹東奇譚』(3)
永井荷風の日記『断腸亭日乗』に、三ノ輪(みのわ)の浄閑寺(じょうかんじ、現・荒川区南千住)を訪れて、近くの吉原遊郭で亡くなった遊女らの墓に香華を手向けたという記事が見える(1937年6月22日)。
ところで、浄閑寺(浄土宗)と吉原遊郭との関係については、寺のホームページに次のような説明が出ている。
「浄閑寺は安政2年(1855)の大地震の際に(犠牲となった)たくさんの新吉原の遊女が投げ込むように葬られたことから「投込(なげこみ)寺」と呼ばれるようになった。花又花酔の川柳に、「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれ、新吉原総霊塔が建立された。……遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、作家永井荷風はしばしば当寺を訪れている。「今の世のわかき人々」にはじまる荷風の詩碑は、このような縁でここに建てられたものである。」
(↓ 新吉原総霊塔…浄閑寺ホームページより)
話をもとに戻せば、浄閑寺を訪れた荷風は『日乗』に次のように書き記している。
「今日の朝三十年ぶりにて浄閑寺を訪(と)ひし時ほど心嬉しき事はなかりき。近隣のさまは変りたれど寺の門と堂宇との震災(関東大震災)に焼けざりしはかさねがさね嬉しきかぎりなり。余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はば、この浄閑寺の塋域(墓地)娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。石の高さは五尺を超ゆべからず。名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし。」
荷風の死後、墓はこの浄閑寺には建てられなかったが(父の墓のある雑司ヶ谷墓地に建てられた)、「吉原」であれ、「玉の井」であれ、「苦界」に生きる/生きた人びとに思いを致すという荷風の姿勢は一貫していた。
その姿勢は、たとえば、荷風の「寺じまの記」(1936年)という随筆にある、「玉の井」の女との次のようなやりとりにもあらわれているだろう。
「…(玉の井には)もう長くいるのか。」
「ここはこの春から。」
「じゃ、その前はどこにいた。」
「亀戸(かめいど、現・江東区)にいたんだけど、母(かあ)さんが病気で、お金がいるからね。こっちへ変った。」
「どの位借りているんだ。」
「千円で四年だよ。」(当時の「千円」は、現在の、およそ2~3百万円に相当)
「これから四年かい。大変だな。」
「もう一人の人なんか、もっと長くいるよ。」
「そうかい。」
ここで荷風は「社会問題」を提起しようとしているわけではないが、このさりげないやりとりのなかにも、「苦界」で懸命に生きる女性たちを思いやる荷風の姿勢が浮かび上がってくる。そして彼は、女から「こんなに貰わなくッていいよ。お湯(おぶ、お茶)だけなら。」と言われるくらいの祝儀を女に手渡して、そのまま帰ったのである。
さて、最後に…。
永井荷風は、東京空襲によって(1945年3月10日)、麻布にあった「偏奇館」が焼け、自宅を失った。敗戦後は、疎開先から引き上げ、東京にほど近い千葉の市川に居を移し、1959年に死去する日までそこで独居暮らしを続けた。
1954年(荷風、75歳)の『日乗』(3月3日)に、次のような記事がある。
「…国鉄沿線の梅花を見むと欲し電車にて千葉に至る。バスにて千葉郊外より稲毛(いなげ)の海岸に至る。海岸の岡に松林あり。林下に小祠(しょうし)あり。浅間(せんげん)神社なるが如し。房総の山影歴々たり。…」
なぜ、この記事を引いたかというと、ちょうどその年、私は父の転勤にともない、千葉の稲毛に引っ越していたからである。今は埋め立てられて見る影もないと思われるが、遠浅の稲毛海岸で、友だちと一緒に海水浴もしたし、潮干狩りもした。「浅間神社」の境内でも、放課後、日が暮れるまで遊んだものだった。「房総の山影」が「歴々」と見えたかどうかは記憶にないが、日によっては東京湾越しに富士山を遠く望むことができた。富士信仰にゆかりの浅間神社の大鳥居も、それゆえ富士のほうを向いていたように記憶する。
1954年の日記記事は、私にとっての、「荷風さん」との小さな、小さな、しかし、うれしい接点であった。
(↓ 千葉・稲毛海岸。撮影年不明。海のなかにも浅間神社の鳥居が立っていた。海岸べりには「海の家」が立ち並んでいる。夏には東京方面からの海水浴客(遠足も含め)もたくさん来ていた。海の家のまえでは、おばさんたちが、ハマグリを焼いて売っていた。甘い香りが漂っていたなあ。)
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