永井荷風『濹東奇譚』(2)

 詩人の金子光晴は、日本の一般大衆について、「国民大衆は、多分に依存的な考えしか持っていないで、日本の軍事力が、現状を打開し、活路を見出してくれることが、一番切実に期待されていたもののようだった。……(軍国化に反対する少数者に対して)圧力をもった大衆は、軍人より輪をかけて、いやなものになっていった。そして終戦後のいまも、そのことにはすこしも変りがないように思われてならない。」(『詩人 金子光晴自伝』)と書いたが、この金子の思いはまた、荷風のそれでもあった。

 「現代日本の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なき事の三事なり。政党の腐敗も軍人の暴行もこれを要するに一般の国民の自覚に乏しきに起因するなり。個人の覚醒せざるがために起ることなり。然りしかうして個人の覚醒は将来においてもこれは到底望むべからざる事なるべし」(永井荷風『断腸亭日乗』、1936年2月14日)

この一節を書き写しながら、およそ90年前にすでに荷風は、日本社会の「いま」を言い当てていたのではないか、そして、日本社会はその宿痾からいまだ抜け出せていないのではないかと思われもして、重たい気持ちにもなる。現在みられる「政党の腐敗」も、憲法を無視した「新しい戦前」も、みな「国民の自覚に乏しきに起因する」ことなのだ。問われているのは、「一般の国民」の一人である、この私なのだ。

最後に、もう一つ引用して、本記事を結びたい。

荷風は、『濹東綺譚』の末尾におかれた「作後贅言」で、次のように書いている。

「わたくしは元来その習癖よりして党を結び群をなし、その威を借りて事をなすことを欲しない。むしろこれを怯となして排(しりぞ)けている。……わたくしは芸林(文芸)に遊ぶものの往々社を結び党を立てて、己に与(くみ)するを揚げ与せざるを抑えようとするものを見て、これを怯となり、陋となるのである。……

 鴻雁は空を行く時、列をつくっておのれを護ることに努めているが、鶯は幽谷を出でて喬木に遷(うつ)らんとする時、群をなさず列をもつくらない。しかもなお鴻雁は猟者の砲火を逃るることができないではないか。結社は必ずしも身を守る道とは言えない。」

 

荷風は「党を結び群をな」すな、と言ってはいるが、「単独者であれ」と言っているのではないだろう。たとえ「鴻雁」の群れのなかにあったとしても、「その威を借りて事をなす」ことなく、精神の構えは「鶯」であれ、あるいは、背を向けて静かにそこから去ればいいと、告げているように私には思われた。

『濹東綺譚』の主人公「大江匡」も、玉の井の女「お雪」もまた、この精神の構えをもって生きる人であり、そのような「鶯」同士が出会い、そして、幽谷を出で」るがごとくそれそれの道へと別れたのである。


(↓ 往時の「玉の井」の一角。狭い路地に向き合て並ぶ「銘酒屋」(表向きは酒屋の看板をあげ、私娼を置いている店)のまえに女たちが立っている。撮影時、不明。東京大空襲でこの地域も焼尽。)













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