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「小国寡民」…河上肇の「遺書」 河上肇ノート(10)

  (「河上肇ノート」は今回で終わります。読んでくださったかた、ありがとうございました。)   河上が出所したのは 1937年6月だが、その翌月に日中戦争が始まる。日本の敗戦から半年後の1946年1月26日に河上は亡くなったから、河上の出所後の時間はほぼ戦争の時代であったことになる。そのなかで、河上は『自叙伝』を執筆し、また「陸放翁鑑賞」(宋代の詩人・陸游について論じたもの)など文学論を書き、また自ら詩作もした。河上は、高等学校時代の途中までは文学志望であり、和漢の古典にもよく通じていた。(獄中生活のあいだも、和漢洋の古典・近代文学をたくさん差し入れしてもらっている。) さて、日本の敗戦直後に河上が書いた文章に「小国寡民」がある( 1945年9月1日稿)。『河上肇評論集』の最後に掲載されている。編者の杉原四郎は、「波瀾に富む生涯をおえんとするにあたり、新生日本の将来に托して自分の夢を語る筆致には、重度の栄養失調症で病床にある人のものとはとても思えぬ力がこもっている」としている。 この「小国寡民」は、宋の詩人・陸游(号は放翁)の「東籬の記」を引用したうえ、「私はこの一文を読んで、放翁(陸游)の晩年における清福を羨むの情に耐えない」とし、河上自らも「(放翁にならって)庵のような家に住みたいと、空想し続けている」と記す。 そして、「放翁の東籬は羨ましい。だが、老子の小国寡民は、またそれにも増して羨ましく思われる」と続け、老子の思想に依りながら「新生日本の将来」について、次のように語っている。   「大国衆民、富国強兵を目標に、軍国主義、侵略主義一点張りで進んで来た我が日本は、大博打の戦争を始めて一敗地にまみれ、明九月二日には米国、英国、ソビエト連邦、中華民国等々の連合国に対し無条件降伏の条約を結ぼうとしている。誰も彼も、くやしい、残念だといって、悲しんだり憤っていたりしている最中であり、いよいよ降伏の具体的諸条件が次ぎ次ぎに分かって来るようになれば、その悲憤は更に一段と加わることだろうと思うが、私はしかし、日本人がこれを機会に、老子のいわゆる小国寡民の意義のきわめて深きを悟るに至れば、今後の日本人は従前に比べかえって仕合せになりはしないかと思っている。」   そして、河上は、小国寡民の現代的一例として、ソビエト連邦の「コーカサス」を取り上げ、そこは老子の言う「小国寡民、そ

「人」である人どうしの交流 河上肇ノート(9)

  (前回の つづき) 河上肇『自叙伝四』の終章「出獄前後」に、「藤井判事との面会と満期服役の決意」という節がある。満期まであと半年となっていたその時期、それ以前は心身の状態もかんばしくなく仮釈放とかで少しでも早く出獄したいと思うことがしばしばあったが、すでに腰も据わって「満期釈放で大手を振って出なければならん」と思うようになっていた。その「決意」を確かなものにできたのは、河上の公判で「裁判長であった判事藤井五一郎」との面会のおかげであったと、河上は書いている。 藤井判事は判決後も、年が明けると河上を訪ねてきたが、満期を迎える 1937年の1月も例外ではなかった。面会室で藤井は「何か聞いて見たいことはありませんか?」と河上にたずねた。河上は次のように答えたという。 「別に伺いたいと思うことは何もありませんが、ただ感謝の意だけは述べたいと思います。 ……私は学問をして来た人間ですし、その学問のために自ら進んでこんな所へも遣って来たのだと云ってもいい位のものですから、学問をした人間らしく扱って貰いたいし、また自分でも学問をした人間らしい態度を失いたくないと、そう希望している訳です。……私は、裁判長としてのあなたから遺憾のない取扱を受けたと思って、その点を感謝しているのです。」   だまって聞いていた藤井判事は、次のように答えた。 「そりゃあなたの物の言いよう次第で(転向声明を出すことなどすれば)、四、五カ月は早く出られるでしょうが、しかしあなたとしては心にもない事を言われるよりか、少々(出獄が)おそくなっても心に疚しい所のないほうがいいでしょう。これまでもずっと正直に遣って来られたんだから、なに、検事の方でも個人的に同情してるんです …」。 藤井は、最後に、「もう之でお目にかかりませんから(半年後に河上は出獄するから)、どうぞおからだを大事に。できるだけ長生きなすって下さい。ではご機嫌よう」と言い、この面会については他言のないようにとも念を押したあと、退室した、という。   権力側にも、当然だが、「人」はいるのである。藤井判事が河上のまえに「人」として現れたのは、もちろん、河上が刑務所においても「人」としてあり続けていたからであろう。 「職業」というものは、往々にしてその人の「人」を抑圧する。しかし、二人は、学者であるか、判事であるかを問わず、「人」として出会い、「人」

「獄中独語」ー戦線からの離脱声明 河上肇ノート(8)

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京大辞職後の河上肇の歩みは、おおよそ次のようである(『河上肇評論集』の「年譜」による)。 1928年4月 京大辞職……49歳 1929年3月 山本宣治暗殺事件      11月 大山郁夫らと新労農党結成 1930年2月 第二回普通選挙、衆議院議員に京都より立候補し落選 1931年 マルクス『資本論』第一冊上冊 1932年9月 日本共産党入党……53歳 1933年1月 東京中野の隠れ家で検挙される。     8月 公判(求刑懲役五年)      9月 下獄 1937年6月 刑期満了して出獄(34年に特赦があり刑期が減ぜられていた。約四年半の獄中生活を送った)……58歳 1941年11月 出獄後は東京で暮らしていたが、京都に移る。 1943年1月 『自叙伝』の執筆を始める……64歳 1946年1月30日 死去。67歳。(前年から栄養失調などにより衰弱が進んでいた)   河上が、地下活動を余儀なくされた時期については『自叙伝二』で、また獄中生活を送った時期については『自叙伝三・四』で、詳しく語られている。そのなかから、私にとって印象深かった部分を二点、紹介したい。 一つは、河上が獄中で書いた「獄中独語」のことであり、もう一つは、出獄直前の時期に面談した判事についての記述である。それらから、河上の「人」がよく伝わってくる。 まず、「獄中独語」の話から ……   公判が始まるまえ、担当検事は河上に向って、「佐野鍋山の声明書(*)はもう新聞に発表されて、左翼の連中に非常にショックを与えたところです。 ……何と言っても佐野の影響力は大したものだから、マルクス主義も日本では之でおしまいでしょうよ。……(佐野らに)会われる気があれば何時でも私の力で手続をしてあげますが…」と、転向へと水を向けた。 (*) 日本共産党幹部の佐野学と鍋山貞親による、獄中からの「転向声明」( 1933年6月)。共産党の路線は誤りだとし、天皇制の下での社会主義(?!)を唱えたという。佐野は東大新人会出身、党中央委員長をつとめた。   河上は、「どんなことがあったとて、そうした連中の一味に加わる気は毛頭も持って居なかったので」、次のように検事に答えた。 「私はもう政治運動からずっかり手を引く決心をいています ……もうそんな物(佐野らの転向書)は見たいとも思いませんし、佐野君たちに会いたくもありません。」   ち

山本宣治とハンチング 河上肇ノート(7)

(前回のつづき) 京都大学を辞した河上肇は、かねてから取り組んでいたマルクス『資本論』の翻訳に打ち込むつもりであった。しかし、マルクスのその遺稿を整理したエンゲルスは、同時に実践的活動に多くの時間をとられたために『資本論』第三巻は第二巻から九年後にようやく出すことができたのである。そうした先人たちの苦闘を思えば、「眼前の運動に眼をつぶって静かに書斎に閉じ籠り、自分の最も好きな文筆の仕事に没頭する、という生活に安んずることが出来なかった」(『自叙伝一』)。 こうして、河上は、書斎から出て、新労農党の結成準備などに積極的に関わっていくことになる。 1928年2月20日におこわれた第一回普通選挙のことは、「 河上肇ノート(5) 」で少し触れた。その選挙で、地下共産党の合法政党としてあった労働農民党は40名近くの候補者を立てたが、当選したのは京都の選挙区の山本宣治 (通称「やません」) と水谷長三郎の二名だけだった。 代議士・山本宣治は、 1929年3月5日、帝国議会で、治安維持法の「改正」(改悪)に反対する演説を準備していたが発言の機会を与えられず(強行採決)、夕方、定宿であった東京神田の旅館「光栄館」に戻り食事をすませたところ、面会を求めて乗り込んできた「七生義団という右翼反動の一グループに属する黒田某(黒田保久二)なるものにより暗殺され、忽(たちま)ちにして不帰の客となった」(『自叙伝一』)。 (山本宣治を刺殺した黒田の背後には「黒幕」がいたという説があるが、ここでは触れない。)   河上は、『自叙伝一』に「同志山本宣治兇刃に殪(たお)れる」という節をおいている。   「山本君はその花やしきを創(はじ)めた父の下で(「花やしき」は料理旅館) ……(京都、宇治川に近い)山紫水明のほとりで育った。一個の生物学者だったのである(京大講師をしていた)。境遇から云っても、専攻の学問から云っても、プロレタリアの階級闘争の先端に立って兇刃に殪れなければならないほどの、経歴上の行き掛りがあるのでもなく、義務があるのでもないのに、今こうして悲壮の死を遂げている。どうしたって私はそれを雲烟過眼する(心に留めない)訳にはいかなかったのである。それは恐らく、私を無産者運動の実践へと駆り立てた一つの有力な刺戟となったものであろう。」   河上が書斎から実践運動の場へと踏み出していった契機の一つ

「良心に愧ずるところなし」 河上事件(2) 河上肇ノート(6)

河上肇は、京大を辞職してすぐ、『京都帝国大学新聞』(1928年 4月21日)に「大学を辞するに臨みて」と題した一文を寄せた。これは、『自叙伝一』にも『河上肇評論集』にも収録されている。全文を紹介したいが、読むのもなかなか大変だと思うので(書き写すのも)、その一部をつまみ食い的に引用してみることにする。 「京都大学を去った今日、私の最初に発する言葉は、その京都大学に対する感謝の辞である。明治四十一( 1908)年、一経済雑誌(『日本経済新誌』)の主筆たりし東大出身の私を招いて、法科大学(1919年に経済学部新設)の講師たらしめたるものは京都大学である。……爾来殆ど二十年の長きにわたり、私の如きものが安んじて斯学の研究に耽ることが出来たのは、私にとって実に望外の仕合(しあわせ)であった。この長き期間にわたる研究は……一生を賭するに足る目標を私に授けてくれた。それのみでなく、私は大学における生活のおかげで、心から尊敬しうる若干の友人をも知り得た。」 このように、河上は、まず 20年間の研究生活を振り返ったうえで、学問研究に対する自らの姿勢を次のように述べる。 「階級闘争が激烈になればなるほど、如何に多くの有力な学者が、知らず識らずのうちに、権力階級に向って媚を呈するに至ったかは、外国の学史が明白にわれわれに教えているところである。 ……私は何よりもまず真理を念とせねばならないことを固く心に誓うた。天分の乏しきは如何ともしがたいが、ただ俗念のために自分の学説を少しでも左右することがあってはならぬと、このことのみ常に心に掛けた。 …… 大学教授としての私の生涯が今や終りを告るに際し、微力何の成すところなかりしは深く愧(は)ずるが、顧みて甚しく良心に愧ずるところなきは、自ら満足するところである。今や責任ある地位を去って、実に力にあまる重荷をおろした心地がする。」 河上の、学問研究に対する姿勢、いや、それ以上に、自身の生を真剣に生きる姿勢がまっすぐに伝わってくる。この背筋がしゃんと伸びた言葉の前で、わが人生をかえりみるとき、私はただただ忸怩たる思いである。何々主義であるかどうかなどは、河上の「生=言葉」のまえでは、意味をなさない。 河上は、「大学を辞するに臨みて」の末尾で、将来ある学生たちに向けて次のように別れを告げた。 「 学生諸君に対し、私は遂に講壇において告別の辞を述ぶる機

京都大学教授を辞す 河上事件(1) 河上肇ノート(5)

河上肇の代表的著作のひとつに、『貧乏物語』がある。これは、 1916(大正5)年に『大阪朝日新聞』に不定期に連載したもので、翌1917年に本にまとめられた。第一次世界大戦期には、日本の産業化(重化学工業化)がすすめられ、農村から都市への労働人口の移動にともない、都市部における「貧困問題」が社会問題化し、労働運動、社会運動も活発化していった時代である(ちなみに、1917年はロシア革命、1918年には米騒動が起きた)。そうした社会状況も、『貧乏物語』の紙価を高めた背景としてあったであろう。 『貧乏物語』は、上編「いかに多数の人が貧乏しているのか」、中編「何ゆえに多数の人が貧乏しているのか」、下編「いかにして貧乏を根治しうべきか」の三編で構成されている。ただ、下編で提示されている貧乏根治の方策は、「富者の奢侈廃止」であって、資本主義社会の生産関係(構造)の問題についての言及、つまりマルクス主義的な視点はそこにはない。河上は、みずからの学問的変遷について次のように書いている。   「私は、最初ブルジョア経済学から出発して、多年安住の地を求めつつ、歩一歩マルクスに近づき、遂に最後に至って、最初の出発点とは正反対なものに転化し了(お)えたのである。かかる転化を完了するために私は京都大学で二十年の歳月を費した。このことは、私の魯鈍を証明するに外ならぬが ……思索研究の久しきを経て茲(ここ)に到達しえたる代わりには、私は今たとい火にあぶられるとも、その学問的所信を曲げがたく感じている。」(河上肇『経済学大綱』1928年}   河上の『経済学大綱』は、前年に京大でおこなった講義をまとめたものだが、「この講義を終えた翌月( 1928年4月)には、私は大学を退かねばならなくなった」のである(『自叙伝一』)。   河上が、京都大学経済学部に辞表を出した 1928年は、2月に第一回普通選挙がおこなわれた年である。この選挙戦では、治安維持法により非合法化された日本共産党のビラがまかれ、また共産党の公然組織であった労農党が全国各地で候補者を立て、河上もその応援演説に加わった(演説は中止させられた)。選挙直後の3月には、共産党関係者の検挙が全国で一斉におこなわれた、いわゆる「3・15事件」があった。そうした状況のなかで、河上肇の辞職「事件」が起きた。   ところで、河上と同じように、京大法学部の滝

「鍵附(かぎつき)の戸と紙張の障子」 河上肇ノート(4)

これまで「河上肇ノート」で、河上の論考から学んだこと、考えたことのあれこれについて、自分に向けてのメモを書いてきた。今回は、少し「閑話休題」ふうに、「堅苦しい話」はひと休みして、少し「品性かんばしからぬ話」をしてみたい。 記事タイトルにある「鍵附の戸と紙張の障子」という文章( 1914年、以下「鍵と障子」と略)は、京都帝大法科大学の助教授であった河上が、1913年から15年にかけて欧州留学中に、大阪朝日新聞に寄稿したものの一つである(帰国後、京大教授となる) 。 『河上肇評論集』(岩波文庫)に収められたこの文章を読み進めていると、ある箇所で、「おや!?」と立ちどまってしまった。ここで河上がしている議論の内容に、どこか見覚えがあったからだ。そう、河上がこの文章を書いてからおよそ 20年後に発表された、哲学者・和辻哲郎の『風土』(1935年)に、この河上の議論をほとんどそのまま「借用」したと思われる部分がある。和辻は、『風土』の「註」などで、何の断りも記していないから、この「借用」は、きつく言いいかえれば、「剽窃」「盗用」の類にもなりかねない。 河上肇の「鍵と障子」は、西洋と日本の住宅構造の違いを象徴的にしめす「鍵」と「障子」に注目しながら、それぞれの社会の人間の在り方と思考原理、つまり、鍵=西洋の個人主義、障子=日本の共同主義(家族主義)を論じたものである。 まず、私の目に留まった、河上の議論と和辻の議論を並べてみる。   K 河上肇「鍵と障子」(1914年) ( K1)「今この地(欧州)にあって遠く日本を顧みれば、日本は実に家族主義の国である。而して日本の家族主義が西洋の個人主義と恐ろしき差異を有するが如くに、日本人の住居の様は恐ろしく西洋人のそれと相違している。鍵を下ろしたる重き戸の代りに、日本では紙一枚の障子で部屋を囲んでいる。出入自在である。共同主義である。…この「家」は実に日本独特のものである。」 ( K2)「日本人は家に上る時は必ず下駄を脱ぐ。家の内と往来とは、われらにとっては全く別のものである。しかるに西洋人は土足のままで自分の部屋に入る。或る意味において部屋が往来であり、少くとも廊下は街路であるが、その代り彼らはまた市街の道路の改善のために骨を折り……。家と内と外との区別が甚だ少い。その意味で彼らは家を持たぬとも思われ、また町全体を家として居るとも見ら

「公道正義」としての「ライト(Right)」 河上肇ノート(3)

(前回のつづき)    河上肇の「日本独特の国家主義」は、これまで見てきたように、近代日本の思考・行動原理である国家主義を、西欧の個人主義と対比させる論法で展開されている。そのため、わかりやすい反面、やや図式的に整理しすぎた議論のように思われるところもある。 しかし、単なる図式的な議論には終わっていないのもまた事実なのだ。 たとえば、「西洋は権利国にして日本は義務国なり」の節では、「権利」と「義務」というお馴染みの対義関係をふまえて議論を進めるが、その議論の前提として、そもそも「権利」とはどういう概念なのかについて、次のように述べる。  「 西洋にあっては個人が個人の利益を主張するということがその権利なり。権利のことは英語にてライト( Right)という。而してこのライトという語は元と公道正義の意を有し、ロング(wrong)即ち罪悪不正の意を有する語と相対するものなり。けだし西洋の如き個人本位の国柄にありては、各個人が自己一身の利益を主張するということが公道正義に合し、これを主張せざるがむしろ罪悪不正なり。」 こう論じたうえ、河上は、日本では、ライト( Right)の翻訳語である「権利」が、「権道の権」、「私利の利」を合成して作られている点に見られるように、その語に本来含まれる「道徳的含意」、つまりそれが「公道正義」を意味するという内実が抜け落ちてしまっていることを鋭く指摘する。 なるほど、と思った。「権利」が翻訳語であるということを忘れると、翻訳語のほうが「ライト」の原義をおいて独り歩きしてしまう。 たしかに、現在の日本においても、「公道正義」としての権利を主張する者に対して、「それはお前の勝手、わがままな主張だ」と足を引っ張る人は少なくないし、あるいはハラスメントや差別言辞を吐く人に対し、それは個人の人格、つまり公共的価値=公道正義を毀損するものだと批判すると、「何を言ってもオレの勝手だろ」と、今度は「表現の自由=権利」を逆手にとって(実は、曲解して)居直る人まで出てくる始末だ。もちろん、こういう人の用いる「権利」という語は、「公道正義」としてのそれではなく、「権道」か「私利」かにすぎない。   河上肇の、この「権利」についての説明を読んでいると、イェーリング『権利のための闘争』( 1891年)の、冒頭の一節が思い出された。  「 世界中のすべての権利=法(レヒ

「日本の国家主義と西洋の個人主義」 河上肇ノート(2)

(前回のつづき) 河上肇「日本独特の国家主義」の第四節「日本の国家主義と西洋の個人主義」の出だしは、次のようである。  「 余の見る所によれば、現代日本の最大特徴はその国家主義にあり。 ……国家は目的にして個人はその手段なり……個人はただ国家の発達を計るための道具機関としてのみ始めて存在の価値を有す。 …… しかるに西洋人の主義は、国家主義にあらずして個人主義なり。故に彼らの主義によれば、個人が目的にして国家はその手段たり。 ……国家はただ個人の生存を完う(まっとう)するための道具機関としてのみ始めて存在の価値を有す。」   河上のこの議論は、カントの、「人間ばかりでなく、およそいかなる理性的存在者も、目的自体として存在する。すなわちあれこれの意志が任意に使用できるような単なる手段としてではなく、自分自身ならびに他の理性的存在者に対してなされる行為において、いついかなる場合にも同時に目的と見なされねばならない」(『道徳形而上学原論』、岩波文庫)を踏まえたもののように読める。そう見てもよさそうなのは、河上は、別の箇所で「西洋にあっては個人を以て自存の価値あるものとなし自己目的性を有するものなりとす」とも述べてもいるからだ。   さて、国家を目的とし個人(人間)をその手段とするような国家主義は、「たといすべての個人を犠牲とするも国家を活かすということ」が、その「必然の論理的断案」となり、「現代日本人の倫理観はこの断案を是認するに躊躇」しない、と河上は述べる。 たしかに、このような国家主義イデオロギーの国民レベルへの浸透が、教育勅語をはじめとした学校教育をとおして「注入」され、「国(=天皇)を守るためのために死ぬ」ことを、積極的か消極的かは別として、少なくともそれを受け入れる「臣民」を大量につくりだしたことは、その後の日本の歴史を見れば明らかだろう。   さらに付言すれば、河上が「日本独特の国家主義」について、そこでは「個人はただ国家の発達を計るための道具機関としてのみ始めて存在の価値を有す」と述べた視点は、 1935年、美濃部達吉の「天皇機関説」を「不敬」と攻撃した学者や国会議員たちに代表される、「国家=天皇」であって、天皇は「法人としての国家」に属すものではなく、したがって国家の「道具機関」ではない、それは超越的存在であるとする国体論イデオロギーの台頭をも、先見の明を

「日本独特の国家主義」 河上肇ノート(1)

経済学者・河上肇( 1879~1946年)の評論・エッセイなどを、最近読んでいる。『貧乏物語』(1917年)、『自叙伝』(1946年)を読み返し、また、『河上肇評論集』(岩波文庫)を最近はじめて手にした。その編者である経済学者・杉原四郎の「解説」冒頭に、河上肇についての簡潔な紹介があるので、まずそれを引用しておこう。   「河上肇は、 1902(明治35)年、東大卒業後大学院に進んで経済学を専攻し、学術的な著書や論文を続々と発表したが、招かれて京大の教壇に立つようになってからは一層精力的に専門的な業績を学界に問いつづけ、大正中期には福田徳三とならぶわが国の代表的な経済学者となった。だが河上は当初からその文筆活動を学界むけのものだけに限定せず、それと並行して一般社会むけの評論活動をも活発に行なってきた。」(杉原四郎) 杉原が言う「学界むけのものだけに限定せず ……一般社会むけの評論活動」をおこなった延長上に、河上が京大教授を辞すきっかけとなった第一回普通選挙での労農党候補への応援演説(1928年)から、地下共産党への入党、「治安維持法違反」による入獄(1933年)という一連の出来事があったのであろう。大正デモクラシー期に論壇で活躍した経済学者・河上肇は、「アカデミズム」の世界を「一般社会」の人びとに向けて開こうと努めた行動の人でもあった。   『河上肇評論集』の編者・杉原四郎は、「私は本書を、『河上肇全集』全三十六巻への道案内という役割りをもはたしうるものとして編んだ」と述べている。36巻もある全集を読みとおすこともないだろう私にとっては、河上肇の思索の歩みを概観できるこの評論集はありがたい。 これから何回かに分けて、『河上肇評論集』、『貧乏物語』、『自叙伝』から、私が立止まり考えたところ、学んだところを取り上げ、読書ノートのようなものを少し書きとめておきたい。   河上肇は、1911年(明治 44年、日本による韓国併合=朝鮮の植民地化の翌年である)、「日本独特の国家主義」という社会評論を発表している(『河上肇評論集』所収)。 その冒頭部分で、河上は、「余の見る所ー感ずる所によれば、わが日本人の思想は明治四十年代を一期として全くその方向を転化したるものの如し」とし、日露戦争( 1904-05年、明治37‐38年)の勝利が、「日本人の思想」の「方向を転化」させたと指摘す

私が私であるということ。

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 テニスプレーヤー、大坂なおみさんが”elle”に寄稿した文章(2020年7月13日)を読みました。 未読でしたら、ご一読なさってみてください。記事リンクは、 ここ 。