「日本の国家主義と西洋の個人主義」 河上肇ノート(2)

(前回のつづき)

河上肇「日本独特の国家主義」の第四節「日本の国家主義と西洋の個人主義」の出だしは、次のようである。

 「余の見る所によれば、現代日本の最大特徴はその国家主義にあり。……国家は目的にして個人はその手段なり……個人はただ国家の発達を計るための道具機関としてのみ始めて存在の価値を有す。

……

しかるに西洋人の主義は、国家主義にあらずして個人主義なり。故に彼らの主義によれば、個人が目的にして国家はその手段たり。……国家はただ個人の生存を完う(まっとう)するための道具機関としてのみ始めて存在の価値を有す。」

 河上のこの議論は、カントの、「人間ばかりでなく、およそいかなる理性的存在者も、目的自体として存在する。すなわちあれこれの意志が任意に使用できるような単なる手段としてではなく、自分自身ならびに他の理性的存在者に対してなされる行為において、いついかなる場合にも同時に目的と見なされねばならない」(『道徳形而上学原論』、岩波文庫)を踏まえたもののように読める。そう見てもよさそうなのは、河上は、別の箇所で「西洋にあっては個人を以て自存の価値あるものとなし自己目的性を有するものなりとす」とも述べてもいるからだ。

 さて、国家を目的とし個人(人間)をその手段とするような国家主義は、「たといすべての個人を犠牲とするも国家を活かすということ」が、その「必然の論理的断案」となり、「現代日本人の倫理観はこの断案を是認するに躊躇」しない、と河上は述べる。

たしかに、このような国家主義イデオロギーの国民レベルへの浸透が、教育勅語をはじめとした学校教育をとおして「注入」され、「国(=天皇)を守るためのために死ぬ」ことを、積極的か消極的かは別として、少なくともそれを受け入れる「臣民」を大量につくりだしたことは、その後の日本の歴史を見れば明らかだろう。

 さらに付言すれば、河上が「日本独特の国家主義」について、そこでは「個人はただ国家の発達を計るための道具機関としてのみ始めて存在の価値を有す」と述べた視点は、1935年、美濃部達吉の「天皇機関説」を「不敬」と攻撃した学者や国会議員たちに代表される、「国家=天皇」であって、天皇は「法人としての国家」に属すものではなく、したがって国家の「道具機関」ではない、それは超越的存在であるとする国体論イデオロギーの台頭をも、先見の明をもってすでにあぶりだしていた。こういう意味で、河上肇の言う「国家主義」は、まさに「日本独特」のものであったのである。

 

(つづく)




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