「鍵附(かぎつき)の戸と紙張の障子」 河上肇ノート(4)

これまで「河上肇ノート」で、河上の論考から学んだこと、考えたことのあれこれについて、自分に向けてのメモを書いてきた。今回は、少し「閑話休題」ふうに、「堅苦しい話」はひと休みして、少し「品性かんばしからぬ話」をしてみたい。

記事タイトルにある「鍵附の戸と紙張の障子」という文章(1914年、以下「鍵と障子」と略)は、京都帝大法科大学の助教授であった河上が、1913年から15年にかけて欧州留学中に、大阪朝日新聞に寄稿したものの一つである(帰国後、京大教授となる)

『河上肇評論集』(岩波文庫)に収められたこの文章を読み進めていると、ある箇所で、「おや!?」と立ちどまってしまった。ここで河上がしている議論の内容に、どこか見覚えがあったからだ。そう、河上がこの文章を書いてからおよそ20年後に発表された、哲学者・和辻哲郎の『風土』(1935年)に、この河上の議論をほとんどそのまま「借用」したと思われる部分がある。和辻は、『風土』の「註」などで、何の断りも記していないから、この「借用」は、きつく言いいかえれば、「剽窃」「盗用」の類にもなりかねない。

河上肇の「鍵と障子」は、西洋と日本の住宅構造の違いを象徴的にしめす「鍵」と「障子」に注目しながら、それぞれの社会の人間の在り方と思考原理、つまり、鍵=西洋の個人主義、障子=日本の共同主義(家族主義)を論じたものである。

まず、私の目に留まった、河上の議論と和辻の議論を並べてみる。

 K 河上肇「鍵と障子」(1914年)

K1)「今この地(欧州)にあって遠く日本を顧みれば、日本は実に家族主義の国である。而して日本の家族主義が西洋の個人主義と恐ろしき差異を有するが如くに、日本人の住居の様は恐ろしく西洋人のそれと相違している。鍵を下ろしたる重き戸の代りに、日本では紙一枚の障子で部屋を囲んでいる。出入自在である。共同主義である。…この「家」は実に日本独特のものである。」

K2)「日本人は家に上る時は必ず下駄を脱ぐ。家の内と往来とは、われらにとっては全く別のものである。しかるに西洋人は土足のままで自分の部屋に入る。或る意味において部屋が往来であり、少くとも廊下は街路であるが、その代り彼らはまた市街の道路の改善のために骨を折り……。家と内と外との区別が甚だ少い。その意味で彼らは家を持たぬとも思われ、また町全体を家として居るとも見られる。」

 W 和辻哲郎『風土』(1935年)

(W1)「先ず第一に(日本の)『家』はその内部において『隔てなき結合』を表現する。どの部屋も隔ての意志の表現としての錠前や締まりによっ他から区別せられることがない。個々の部屋の区別は消滅している。たとい襖や障子で仕切られているとしても、それはただ相互の信頼において仕切られるのみであって……」

(W2)「第二に(日本の)『家』はそとに対して明白に区別せられる。部屋には締まりをつけないにしても外に対しては必ず戸締まりをつける。……そとから帰れば玄関において下駄や靴をぬぎ、それによって外と内とを截然区別する。……(一方、西洋において)内外(うちそと)が第一に個人の心の内外を意味することは、家の構造に反映して、個別的な部屋の内外となるのである。……一歩室を出れば、家庭内の食堂であると街のレストランであると大差はない。すなわち家庭内の食堂がすでに日本の意味における『そと』であるとともに、レストランやオペラなどおいわば茶の間や居間の役目をつとめるのである。……人はきわめて個人主義的であり従って距てがあるとともに、またきわめて社交的であっり従って距てにおける共同になれている。」


K1とW1、またK2とW2を読み比べてみたとき、みなさんはどのような感想をおもちになっただろか?

W1、W2の引用は、和辻の『風土』第四章「モンスーン的風土の特殊形態」の第二節「日本」からのものであり、その第二節冒頭には「昭和四(1929)年初稿」とあるから、その初稿でさえ、河上の「鍵と障子」の発表年から15年後のものである。

のちの、和辻哲学(倫理学)研究者たちが、河上肇の先行的な論考と『風土』の関連をどのように取り上げ論じているのか、知りたくもなる。(どなたか、ご存知でしたら、ご教示ください。)

しかし、和辻『風土』の本当の問題は、河上の議論の「借用」疑惑にあるのではなく、その議論の帰着点にあると思われる。和辻は、W1・2を踏まえ、次のように議論を展開していく。

「(日本において)個人が喜んでおのれを没却するこの小さい世界においては共同そのものが発達し得なかったのは当然だろう。そこで人々はおのが権利を主張し始めなかったとともに、また公共生活における義務の自覚にも達しなかった。そうしてこの小さな世界にふさわしい『思いやり』、『控え目』、『いたわり』、というごとき繊細な心情を発達させた。」

こうした「環境決定論=運命論」的議論を1935年という時代に示した、その行き先は明らかだろう。

『風土』(岩波文庫版)の「解説」を担当した歴史家の井上光貞は、発刊直後に戸坂潤がおこなった『風土』批判、すなわち、その行き着く先が「『家』(イデオロギー)の肯定、『家』国家としての天皇制の安易な擁護となる」という議論ほかを紹介している。和辻は河上と類似する議論をしたのだが、行き着いた先が、河上肇とは決定的に違っていた。

さて、私のこの小文は、和辻論ではなく、あくまでも「河上肇ノート」である。また、和辻について論ずる準備もない。そこで、河上が、京大の教官だったころ、ある学生に送った言葉、「学に志す者へ」(1917年、『評論集』所収)の一節を引いて、この「河上肇ノート(4)」を終わることにしたい。

 

「およそ学に志す者は才の乏しきを悲しむなかれ 努むることの足らざるを恐れよ

……

 およそ学に志す者は知られざるを恨むなかれ、知らざるを憂えよ…」

 

学問の世界には遠かったこの私にも響いてくる、含蓄のある言葉だ。もちろん、これは河上がたえずみずからに問い続けていた言葉でもあっただろう。和辻なら、この言葉をどう読むのだろうか?

(つづく)



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