「良心に愧ずるところなし」 河上事件(2) 河上肇ノート(6)

河上肇は、京大を辞職してすぐ、『京都帝国大学新聞』(1928年4月21日)に「大学を辞するに臨みて」と題した一文を寄せた。これは、『自叙伝一』にも『河上肇評論集』にも収録されている。全文を紹介したいが、読むのもなかなか大変だと思うので(書き写すのも)、その一部をつまみ食い的に引用してみることにする。

「京都大学を去った今日、私の最初に発する言葉は、その京都大学に対する感謝の辞である。明治四十一(1908)年、一経済雑誌(『日本経済新誌』)の主筆たりし東大出身の私を招いて、法科大学(1919年に経済学部新設)の講師たらしめたるものは京都大学である。……爾来殆ど二十年の長きにわたり、私の如きものが安んじて斯学の研究に耽ることが出来たのは、私にとって実に望外の仕合(しあわせ)であった。この長き期間にわたる研究は……一生を賭するに足る目標を私に授けてくれた。それのみでなく、私は大学における生活のおかげで、心から尊敬しうる若干の友人をも知り得た。」

このように、河上は、まず20年間の研究生活を振り返ったうえで、学問研究に対する自らの姿勢を次のように述べる。

「階級闘争が激烈になればなるほど、如何に多くの有力な学者が、知らず識らずのうちに、権力階級に向って媚を呈するに至ったかは、外国の学史が明白にわれわれに教えているところである。……私は何よりもまず真理を念とせねばならないことを固く心に誓うた。天分の乏しきは如何ともしがたいが、ただ俗念のために自分の学説を少しでも左右することがあってはならぬと、このことのみ常に心に掛けた。

……

大学教授としての私の生涯が今や終りを告るに際し、微力何の成すところなかりしは深く愧(は)ずるが、顧みて甚しく良心に愧ずるところなきは、自ら満足するところである。今や責任ある地位を去って、実に力にあまる重荷をおろした心地がする。」

河上の、学問研究に対する姿勢、いや、それ以上に、自身の生を真剣に生きる姿勢がまっすぐに伝わってくる。この背筋がしゃんと伸びた言葉の前で、わが人生をかえりみるとき、私はただただ忸怩たる思いである。何々主義であるかどうかなどは、河上の「生=言葉」のまえでは、意味をなさない。

河上は、「大学を辞するに臨みて」の末尾で、将来ある学生たちに向けて次のように別れを告げた。

学生諸君に対し、私は遂に講壇において告別の辞を述ぶる機を得なかった。茲(ここ)に本紙を通じて、諸君が将来真正の意味における幸福を享受されんことを希望しつつある旨を述べて、諸君への挨拶に代える。」

「真正の意味における幸福」……それは、ひとり学生たちのみならず、社会を構成するすべての人びとが享受すべきものとして、河上が、学問上においても人生上においても、自らに課し、問い続けてきた「問い」であった。

 

(つづく)

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