「人」である人どうしの交流 河上肇ノート(9)

 (前回のつづき)

河上肇『自叙伝四』の終章「出獄前後」に、「藤井判事との面会と満期服役の決意」という節がある。満期まであと半年となっていたその時期、それ以前は心身の状態もかんばしくなく仮釈放とかで少しでも早く出獄したいと思うことがしばしばあったが、すでに腰も据わって「満期釈放で大手を振って出なければならん」と思うようになっていた。その「決意」を確かなものにできたのは、河上の公判で「裁判長であった判事藤井五一郎」との面会のおかげであったと、河上は書いている。


藤井判事は判決後も、年が明けると河上を訪ねてきたが、満期を迎える1937年の1月も例外ではなかった。面会室で藤井は「何か聞いて見たいことはありませんか?」と河上にたずねた。河上は次のように答えたという。


「別に伺いたいと思うことは何もありませんが、ただ感謝の意だけは述べたいと思います。……私は学問をして来た人間ですし、その学問のために自ら進んでこんな所へも遣って来たのだと云ってもいい位のものですから、学問をした人間らしく扱って貰いたいし、また自分でも学問をした人間らしい態度を失いたくないと、そう希望している訳です。……私は、裁判長としてのあなたから遺憾のない取扱を受けたと思って、その点を感謝しているのです。」

 

だまって聞いていた藤井判事は、次のように答えた。

「そりゃあなたの物の言いよう次第で(転向声明を出すことなどすれば)、四、五カ月は早く出られるでしょうが、しかしあなたとしては心にもない事を言われるよりか、少々(出獄が)おそくなっても心に疚しい所のないほうがいいでしょう。これまでもずっと正直に遣って来られたんだから、なに、検事の方でも個人的に同情してるんです…」。


藤井は、最後に、「もう之でお目にかかりませんから(半年後に河上は出獄するから)、どうぞおからだを大事に。できるだけ長生きなすって下さい。ではご機嫌よう」と言い、この面会については他言のないようにとも念を押したあと、退室した、という。

 

権力側にも、当然だが、「人」はいるのである。藤井判事が河上のまえに「人」として現れたのは、もちろん、河上が刑務所においても「人」としてあり続けていたからであろう。

「職業」というものは、往々にしてその人の「人」を抑圧する。しかし、二人は、学者であるか、判事であるかを問わず、「人」として出会い、「人」としてたがいに向き合って「言葉=生」を交わしたのであった。

 

そして、この藤井の面談から6か月後の6月14日、河上が刑務所で過ごす最後の日が来た。

その日、夜12時が来れば釈放となる。夕食が終わって、身の回りを整理した。午後11時、看守部長が来て、監房の扉を開けた。彼の後に続いて、階段を降り長い廊下を歩いて戒護事務室横の接見室まできた。看守長から「これから三十分足らずのうちに釈放する旨」が言い渡された。その場で、家族から差し入れのあった衣類が手渡された。囚人服を脱いで、河上が好んだ和服に着替えた。


「袴に足を通し紐を腰に結ぶとき、口元が綻(ほころ)び目頭が潤むのを感じた。……他人(ひと)が居なければ泣き出しただろうと思えた。」


やがて日付のかわる12時の時計が鳴った。弁護士が迎えに来た。弁護士は、刑務所の正門前に来ているたくさんの新聞記者たちは自分が引き付けておくから、そのあいだに、裏門から出て、待っている自動車で家に帰ってくれという段取りを河上に伝えた。

 

「昭和十二(1937)年六月十五日午前一時過ぎに……かれが家出してから足掛け六年目、検挙されてから満四年六カ月目にーー憧れの我が家に帰った」(『自叙伝四』)。

 

(つづく、次回で終わります。)




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