「獄中独語」ー戦線からの離脱声明 河上肇ノート(8)

京大辞職後の河上肇の歩みは、おおよそ次のようである(『河上肇評論集』の「年譜」による)。

1928年4月 京大辞職……49歳

1929年3月 山本宣治暗殺事件

    11月 大山郁夫らと新労農党結成

1930年2月 第二回普通選挙、衆議院議員に京都より立候補し落選

1931年 マルクス『資本論』第一冊上冊

1932年9月 日本共産党入党……53歳

1933年1月 東京中野の隠れ家で検挙される。

    8月 公判(求刑懲役五年)

    9月 下獄

1937年6月 刑期満了して出獄(34年に特赦があり刑期が減ぜられていた。約四年半の獄中生活を送った)……58歳

1941年11月 出獄後は東京で暮らしていたが、京都に移る。

1943年1月 『自叙伝』の執筆を始める……64歳

1946年1月30日 死去。67歳。(前年から栄養失調などにより衰弱が進んでいた)

 

河上が、地下活動を余儀なくされた時期については『自叙伝二』で、また獄中生活を送った時期については『自叙伝三・四』で、詳しく語られている。そのなかから、私にとって印象深かった部分を二点、紹介したい。

一つは、河上が獄中で書いた「獄中独語」のことであり、もう一つは、出獄直前の時期に面談した判事についての記述である。それらから、河上の「人」がよく伝わってくる。

まず、「獄中独語」の話から……

 

公判が始まるまえ、担当検事は河上に向って、「佐野鍋山の声明書(*)はもう新聞に発表されて、左翼の連中に非常にショックを与えたところです。……何と言っても佐野の影響力は大したものだから、マルクス主義も日本では之でおしまいでしょうよ。……(佐野らに)会われる気があれば何時でも私の力で手続をしてあげますが…」と、転向へと水を向けた。


(*) 日本共産党幹部の佐野学と鍋山貞親による、獄中からの「転向声明」(1933年6月)。共産党の路線は誤りだとし、天皇制の下での社会主義(?!)を唱えたという。佐野は東大新人会出身、党中央委員長をつとめた。

 

河上は、「どんなことがあったとて、そうした連中の一味に加わる気は毛頭も持って居なかったので」、次のように検事に答えた。

「私はもう政治運動からずっかり手を引く決心をいています……もうそんな物(佐野らの転向書)は見たいとも思いませんし、佐野君たちに会いたくもありません。」

 

ちょうどその頃、河上は、面会に来た、雑誌『改造』や『中央公論』の記者から原稿を求められていた。河上はマルクス主義経済学についての著作を多く出しており、社会的な影響力をもっていたから、検事は、この原稿が河上の「転向声明」となることを望んだ。河上は、検事から何度も「訂正」を求められながら、「獄中独語」と題した文章をまとめた。こうして出来上がった原稿は、検事局の独断で、『改造』ではなく、全国の新聞に一斉に掲載されることになった。河上も、「自分の書いたものは、何でも善かれ悪しかれ成るべく多勢の人に見て貰いたいと云うのが、私の平素からの流儀」だったから、それに納得した。



(河上肇「獄中独語」を報ずる『東京朝日新聞』。河上秀『留守日記』(1997年)より転載)



この「獄中独語」の一部を、切れ切れに紹介すると……

 

「老残の身を牢獄に埋めることは、かねての覚悟であった。……もはや残生いくばくもない。……共産主義者たる資格(実践的な政治活動)を抛棄(ほうき)することは、共産主義者としての自刃である。……私は再び自由を得んがため(満期で出獄すること)今敢て之を犯すについて、首(こうべ)を俛(た)れて罪を同志諸君の前に俟(ま)つ者である。

……私は、今後実際運動とは全く関係を絶ち、元の書斎に隠居するであろう。これが私の現在の決意である。……共産主義者としての自分を自分自身の手で葬るわけである。」

 

河上は、このように共産主義運動の実践活動から離脱することを宣言したうえで、次のように付言して、引き続き、マルクス主義を研究していくことを自他に確認している。

「誤解を避けるために一言しておくが、以上のこと(戦線から離脱すること)は、勿論マルクス主義の基礎理論に対する私の学問上の信念が動揺したことを意味するのではない。ふつつからながら、かりにも三十年の水火をくぐって来た私の学問上の信念が、僅か半か年の牢獄生活によって早くも動揺を始めると云うことは、在り得ない。書斎裡に隠居した後も、私は依然としてマルクス主義を信奉する学問の一人として(ママ)止まるであろう。しかし、ただマルクス主義を信奉すると云うだけでは、マルクス主義者でも共産主義者でも在り得ないのだ。

……(長い中略)

どうかして資本論の翻訳だけは生命のある中に纏(まと)めておきたい。ーーこれは数年来絶えず私の脳裏を去来しつつある一つの希望である。書斎裡において一廃兵としての残生を偸(ぬす)もうとしている私は、自由を得た暁には、一日も早くこの仕事を完成して、安逸を貪る罪の幾分を償いたいと考えている。」

 

そして、河上は『獄中独語』を次のように結んだ。

「以上の一文を以て自らを葬るの弔辞となし、同時にまた自らを救うの呪文となさんがため、これを市ヶ谷刑務所内の監房に独坐して認(したた)め了(おわ)る。時に唱和八(1933)年七月二日なり。」

 

「獄中独語」は、「自らを葬るの弔辞」であり、同時に「自らを救うの呪文」であった。ここで、佐野らの転向声明とのちがいをあれこれ述べることは、河上の意に反するだろうが、ひと言だけいえば、河上は、そこで佐野らのように「理論」を問題にしたのではなく、あくまでも「自ら」とその生き方を、文字通り主体的に問題にしたのである。だから、この「獄中独語」を伝えた『時事新聞』は、それを「切々たる人間的な感情を吐露して、謂わゆる共産党員の声明書(佐野らの転向声明)とは類を異にし、真情人に迫るものがある」と、伝えたのであった。(各紙の記事は『自叙伝三』に引用されている。)


(二つ目の、河上に面談に来た判事の話は次回にまわします。)

 

(つづく)




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