京都大学教授を辞す 河上事件(1) 河上肇ノート(5)

河上肇の代表的著作のひとつに、『貧乏物語』がある。これは、1916(大正5)年に『大阪朝日新聞』に不定期に連載したもので、翌1917年に本にまとめられた。第一次世界大戦期には、日本の産業化(重化学工業化)がすすめられ、農村から都市への労働人口の移動にともない、都市部における「貧困問題」が社会問題化し、労働運動、社会運動も活発化していった時代である(ちなみに、1917年はロシア革命、1918年には米騒動が起きた)。そうした社会状況も、『貧乏物語』の紙価を高めた背景としてあったであろう。

『貧乏物語』は、上編「いかに多数の人が貧乏しているのか」、中編「何ゆえに多数の人が貧乏しているのか」、下編「いかにして貧乏を根治しうべきか」の三編で構成されている。ただ、下編で提示されている貧乏根治の方策は、「富者の奢侈廃止」であって、資本主義社会の生産関係(構造)の問題についての言及、つまりマルクス主義的な視点はそこにはない。河上は、みずからの学問的変遷について次のように書いている。 

「私は、最初ブルジョア経済学から出発して、多年安住の地を求めつつ、歩一歩マルクスに近づき、遂に最後に至って、最初の出発点とは正反対なものに転化し了(お)えたのである。かかる転化を完了するために私は京都大学で二十年の歳月を費した。このことは、私の魯鈍を証明するに外ならぬが……思索研究の久しきを経て茲(ここ)に到達しえたる代わりには、私は今たとい火にあぶられるとも、その学問的所信を曲げがたく感じている。」(河上肇『経済学大綱』1928年}

 河上の『経済学大綱』は、前年に京大でおこなった講義をまとめたものだが、「この講義を終えた翌月(1928年4月)には、私は大学を退かねばならなくなった」のである(『自叙伝一』)。

 

河上が、京都大学経済学部に辞表を出した1928年は、2月に第一回普通選挙がおこなわれた年である。この選挙戦では、治安維持法により非合法化された日本共産党のビラがまかれ、また共産党の公然組織であった労農党が全国各地で候補者を立て、河上もその応援演説に加わった(演説は中止させられた)。選挙直後の3月には、共産党関係者の検挙が全国で一斉におこなわれた、いわゆる「3・15事件」があった。そうした状況のなかで、河上肇の辞職「事件」が起きた。

 ところで、河上と同じように、京大法学部の滝川幸辰(ゆきとき)教授の刑法理論がやり玉にあげられた「滝川事件(京大事件)」は、河上の辞職事件の5年後のことになる。ただ、滝川の場合は法学部教授会全体が文部省・京大当局による処分に抗議しため「事件」化したが、マルクス主義者であった河上の場合は、経済学部教授会全体が河上に辞職を勧告したので「河上事件」とはならず、孤立無援のなか、河上は京大を去ったのであった。

しかし、マルクス主義者(河上)なら辞職はやむを得ないとするような考え(偏見)が、のちの自由主義者の大学からの追放という扉を先行的に開けたのであり、また思想学問の自由、大学の自治に対する侵害という点では両者のあいだに何ら相違はない。だから、河上の辞職事件は「第一次京大事件(河上事件)」とよび、「滝川事件」も「第二次京大事件(滝川事件)」とよんで、二つの事件が内的関連を持っていたという点を明示すべきではないかと私は考える。

(…と、書いたが、河上の『自叙伝五』に収録されている「荒木寅三郎(京都帝大総長)の頭」を読むと、河上は「京都学連事件」(京大の社会科学研究会の学生などが治安維持法違反で検挙された)を「京大事件」とよんでいる。沢柳事件も含めると「京大事件」の数はさらに増えることになる。)

 なお、『自叙伝一』を読んで初めて知ったのだが、河上は滝川幸辰のことを「友人」とよんでいる。河上が治安維持法違反で起訴され刑期を終え出獄したあと(4年半の間、獄にいた)、京都に戻った河上は、同じく京大を追われた滝川に招かれ、一夕語り合った。そのとき、滝川は、所蔵する河上の『資本論入門』(刊行とともに発禁処分)の巻末に一文を求めたという。河上がしたためた一文の末尾は次のようであった。

 「昭和十七(1943)年冬、晩餐に招かれ滝川学兄の邸(やしき)に至りし夕(ゆうべ)、偶々(たまたま)この書の初版(発禁本)がその書庫に存するを見、感慨少なからず、乃(すなわ)ち需(もとめ)に応じ巻尾に題することかくの如し。」(『自叙伝一』

 

さて、話をもとに戻して……

河上は、1928年4月16日に京大の荒木総長から辞職の勧告を受けた。その総長から示された理由は、

(1)『マルクス主義講座』の予約販売の推薦文として、河上が書いた小文(1927年11月)に「不穏当な個所」がある

(2)河上がおこなった第一回普通選挙の応援演説に「不穏な個所」がある

(3)河上が指導教官である、京大の学生団体「社会科学研究会」から治安を紊乱する者(3・15事件での被検挙者)が出た

であった。

 「以上の如き諸事由は、私の辞職を必要とする理由となり得ないと私は考えるが、ただ既に(経済学部)教授会の正式の決議を経て総長から辞職の勧告を受けたのである以上、大学の一員として、大学の自治のため……即日辞意を決するに至った次第である。」(『自叙伝一』)

 

なお、付言すれば、理由(1)にあげられている、『マルクス主義講座』を推薦した河上の小文に対する「問題視」は、河上の辞職の前年(1927年)から起きてきたらしい。河上本人は次のように書いている。

「この一文は当時枢密院(天皇の諮問機関)の若干の老人達によって問題視され、時の文部大臣水野錬太郎は京都帝国大学の総長荒木寅三郎を通じて、この一文は取り消すことにして貰いたい、そして講座の監修者たることも取りやめて貰いたい、という要求を(河上に)したが……(荒木総長に対して)その場でそんな事は嫌だと答えた。」(『自叙伝四』)

これは、1927年末から28年初めの頃にあったことだったという。28年4月に、突然、河上に対する辞職勧告が浮上してきたのではない。

天皇の直属機関である枢密院が動いていたとすれば、それは当時の地下日本共産党が「天皇制打倒」を掲げていたからであろうか。治安維持法は、基本的にマルクス主義・無政府主義を弾圧するためのものであり、「国体(天皇制)変革」を目的とする結社に関与した者は厳罰(最高刑は死刑)に処せられた。極端に言えば、犯罪「行為」はなくとも、「思想」だけで「死刑」にされるのである。

なお、法学者・滝川幸辰は、刑は客観的な「行為」に対するものでなければならず、主観的に人の「思想」を裁くものではないという刑法理論に立っていた(「罪刑法定主義」というらしい)。「治安維持法」による恣意的な政治・思想弾圧を押しすすめる権力層からは、滝川も、当然「排除」しなげればならない思想をもつ人物と見なされていたのである。

 

(つづく)



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