「公道正義」としての「ライト(Right)」 河上肇ノート(3)

(前回のつづき) 

 河上肇の「日本独特の国家主義」は、これまで見てきたように、近代日本の思考・行動原理である国家主義を、西欧の個人主義と対比させる論法で展開されている。そのため、わかりやすい反面、やや図式的に整理しすぎた議論のように思われるところもある。

しかし、単なる図式的な議論には終わっていないのもまた事実なのだ。

たとえば、「西洋は権利国にして日本は義務国なり」の節では、「権利」と「義務」というお馴染みの対義関係をふまえて議論を進めるが、その議論の前提として、そもそも「権利」とはどういう概念なのかについて、次のように述べる。

 「西洋にあっては個人が個人の利益を主張するということがその権利なり。権利のことは英語にてライト(Right)という。而してこのライトという語は元と公道正義の意を有し、ロング(wrong)即ち罪悪不正の意を有する語と相対するものなり。けだし西洋の如き個人本位の国柄にありては、各個人が自己一身の利益を主張するということが公道正義に合し、これを主張せざるがむしろ罪悪不正なり。」

こう論じたうえ、河上は、日本では、ライト(Right)の翻訳語である「権利」が、「権道の権」、「私利の利」を合成して作られている点に見られるように、その語に本来含まれる「道徳的含意」、つまりそれが「公道正義」を意味するという内実が抜け落ちてしまっていることを鋭く指摘する。

なるほど、と思った。「権利」が翻訳語であるということを忘れると、翻訳語のほうが「ライト」の原義をおいて独り歩きしてしまう。

たしかに、現在の日本においても、「公道正義」としての権利を主張する者に対して、「それはお前の勝手、わがままな主張だ」と足を引っ張る人は少なくないし、あるいはハラスメントや差別言辞を吐く人に対し、それは個人の人格、つまり公共的価値=公道正義を毀損するものだと批判すると、「何を言ってもオレの勝手だろ」と、今度は「表現の自由=権利」を逆手にとって(実は、曲解して)居直る人まで出てくる始末だ。もちろん、こういう人の用いる「権利」という語は、「公道正義」としてのそれではなく、「権道」か「私利」かにすぎない。

 河上肇の、この「権利」についての説明を読んでいると、イェーリング『権利のための闘争』(1891年)の、冒頭の一節が思い出された。

 「世界中のすべての権利=法(レヒト Lecht)は闘い取られたものである。重要な法命題はすべて、まずこれに逆らう者から闘い取られねばならなかった。……権利=法は、単なる思想ではなく、生き生きとした力なのである。だからこそ、片手に権利=法を量るための秤(はかり)をもつ正義の女神は、もう一方の手で権利=法を貫くための剣(つるぎ)を握っているのだ。」(岩波文庫)

ドイツの法学者(弁護士)、イェーリングは、また、権利=法が血を流して闘い取られたもの(市民革命の成果)である以上、権利の侵害に対して抵抗したたかうことは、自己が倫理的存在としてあり続けるために、「権利者の自分自身に対する義務であり……(また同時に)国家共同体に対する義務である」と言うのである。

ここで「義務」は、「権利」の単なる反対語ではなく、その権利を権利として存立させるためにたえず権利を行使する「義務」があるという、「権利」との内的緊張関係において定義されている。この議論を学んだとき、光がさっと差し込んできたような気がしたことを思い出す。

欧米や、日本を除くアジアで、政府や特定集団による権利の侵害に対して、市民が「街頭=公共空間」に出て、大規模なデモで抗議するのも、それが市民的な「義務」として、つまり生きた思想として身についているからだろう。

ところで、イェーリングは、『権利のための闘争』の「序文」で、その自著が世界の多くの国で翻訳されているとし、21カ国、それぞれでの刊行年と訳者を紹介している。その20番目に「1886年(明治9年)…西周による日本語訳(東京)」とある。河上肇なら、翻訳書ではなく原典を直接読んだのかもしれないが、いずれにしても、河上の「公道正義」としての権利は、イェーリングの「権利」概念と重なるものだ、と私は思う。

さて、私(たち)は、日本国憲法が定めるところ(たとえば基本的人権)を侵害するものに対し、「自己が倫理的存在であり続けるために」、また、その憲法を定め、憲法の下にある「国家共同体」の各成員(主権者)のためにも、「権利のための闘争」を「義務」として、日常の営みとして、みずからに課しているだろうか?

日本では、市民革命を経ずして「憲法=権利」を手にした(与えられた)という歴史的経緯がたしかにある。しかし、私(たち)はそのことを嘆いたり、そのことで自嘲的になったりする必要はまったくない。なぜなら、憲法に定められた「権利のための闘争」を不断におこなっていくこと、その「義務」を果たそうと努力することは、ほかならぬ日々の「小さな市民革命」なのであり、その経験の積み重ねの先に、平和的な市民社会を構築することができるからだ。いや、すでに私たちの先人たち、同時代に人たちがそれを粘り強く続けてきてくれている。

河上肇の言う、「ライトという語は元と公道正義の意を有」するという「権利」概念への喚起は、そうした現在的課題を私に問いかけてくる。

(つづく)




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