山本宣治とハンチング 河上肇ノート(7)
(前回のつづき)
京都大学を辞した河上肇は、かねてから取り組んでいたマルクス『資本論』の翻訳に打ち込むつもりであった。しかし、マルクスのその遺稿を整理したエンゲルスは、同時に実践的活動に多くの時間をとられたために『資本論』第三巻は第二巻から九年後にようやく出すことができたのである。そうした先人たちの苦闘を思えば、「眼前の運動に眼をつぶって静かに書斎に閉じ籠り、自分の最も好きな文筆の仕事に没頭する、という生活に安んずることが出来なかった」(『自叙伝一』)。
こうして、河上は、書斎から出て、新労農党の結成準備などに積極的に関わっていくことになる。
1928年2月20日におこわれた第一回普通選挙のことは、「河上肇ノート(5)」で少し触れた。その選挙で、地下共産党の合法政党としてあった労働農民党は40名近くの候補者を立てたが、当選したのは京都の選挙区の山本宣治(通称「やません」)と水谷長三郎の二名だけだった。
代議士・山本宣治は、1929年3月5日、帝国議会で、治安維持法の「改正」(改悪)に反対する演説を準備していたが発言の機会を与えられず(強行採決)、夕方、定宿であった東京神田の旅館「光栄館」に戻り食事をすませたところ、面会を求めて乗り込んできた「七生義団という右翼反動の一グループに属する黒田某(黒田保久二)なるものにより暗殺され、忽(たちま)ちにして不帰の客となった」(『自叙伝一』)。
(山本宣治を刺殺した黒田の背後には「黒幕」がいたという説があるが、ここでは触れない。)
河上は、『自叙伝一』に「同志山本宣治兇刃に殪(たお)れる」という節をおいている。
「山本君はその花やしきを創(はじ)めた父の下で(「花やしき」は料理旅館)……(京都、宇治川に近い)山紫水明のほとりで育った。一個の生物学者だったのである(京大講師をしていた)。境遇から云っても、専攻の学問から云っても、プロレタリアの階級闘争の先端に立って兇刃に殪れなければならないほどの、経歴上の行き掛りがあるのでもなく、義務があるのでもないのに、今こうして悲壮の死を遂げている。どうしたって私はそれを雲烟過眼する(心に留めない)訳にはいかなかったのである。それは恐らく、私を無産者運動の実践へと駆り立てた一つの有力な刺戟となったものであろう。」
河上が書斎から実践運動の場へと踏み出していった契機の一つに、「同志山本宣治」の死(暗殺事件)があったのである。
山本宣治が右翼の凶刃に倒れる少し前、労農党系の集会に参加し河上が京都五条署に検束されたことがあったが、河上の身をもらい受けに来てくれたのも山本であった。「私が釈放されて署を出ようとした時、私は出口につき立っている同君(山本)の笑顔にぶつかった。『ありがとう』と言ったきりで、その場は別れたが、それが、私にとっては、肉体的に生きている君と語りうる最後の機会であったのだ。」
「三月八日(暗殺事件の3日後)、東京で催された告別式の当日、せめて君(山本)の遺骸がまだ灰にならぬうちに、その前に立って、わずかに数言を述べんと欲したが、私(河上)は口を開いて、告別の辞の最初の数行の『断乎たる闘争の』という言葉を発音した刹那に、臨監の警官(演説会などを取締る官憲)によって中止を命ぜられた。」
ところで、私が「山本宣治」という名前を聞いて思い出すのは、「ハンチング」(鳥打帽)のことである。
50年近くまえの学生時代、上級生のAに、初夏の頃だったか、彼の実家の近くを流れる宇治川で釣りをしようと誘われたことがあった。釣りは朝早くするので、2,3人で前夜から泊りがけで彼の家まで出かけて行ったと思う。そのとき「近所に山宣の墓がある」と教えられたが、「戦前の活動家」くらいの認識しかなかったから、せっかくの機会だったのに墓参りにも行かずに終わった。
Aの父親は、1928年の3・15事件で検挙された経歴をもつ労働運動の活動家で、戦後もさまざまな運動に指導的立場で関わり続けたかただと、あとから知った。釣りにもいっしょに行ったと記憶する。とても物静かで穏やかな人だった。釣果はゼロ、家に戻って朝食をご馳走になった。
Aの父はハンチングをたくさん持っていて、そのなかから一つをいただいた。フランス映画やイタリア映画で労働者がよくかぶっているようなウール地の帽子だった。大切にしていたが、何年後か、下宿に遊びに来た友人が持って行ったか、度重なる引っ越しのなかで紛失したかで、なくしてしまった。何とも情けないことである。
大学を卒業して数年後だったか、Aの父親が亡くなったということを人づてに知った。真っ先に思い出したのは、あのウール地のハンチングだった。それがさらに、あの山本宣治へとつながっていった。
(つづく……「河上肇ノート」は、あと2回くらいで終わろうと思います。)
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