「日本独特の国家主義」 河上肇ノート(1)
経済学者・河上肇(1879~1946年)の評論・エッセイなどを、最近読んでいる。『貧乏物語』(1917年)、『自叙伝』(1946年)を読み返し、また、『河上肇評論集』(岩波文庫)を最近はじめて手にした。その編者である経済学者・杉原四郎の「解説」冒頭に、河上肇についての簡潔な紹介があるので、まずそれを引用しておこう。
「河上肇は、1902(明治35)年、東大卒業後大学院に進んで経済学を専攻し、学術的な著書や論文を続々と発表したが、招かれて京大の教壇に立つようになってからは一層精力的に専門的な業績を学界に問いつづけ、大正中期には福田徳三とならぶわが国の代表的な経済学者となった。だが河上は当初からその文筆活動を学界むけのものだけに限定せず、それと並行して一般社会むけの評論活動をも活発に行なってきた。」(杉原四郎)
杉原が言う「学界むけのものだけに限定せず……一般社会むけの評論活動」をおこなった延長上に、河上が京大教授を辞すきっかけとなった第一回普通選挙での労農党候補への応援演説(1928年)から、地下共産党への入党、「治安維持法違反」による入獄(1933年)という一連の出来事があったのであろう。大正デモクラシー期に論壇で活躍した経済学者・河上肇は、「アカデミズム」の世界を「一般社会」の人びとに向けて開こうと努めた行動の人でもあった。
『河上肇評論集』の編者・杉原四郎は、「私は本書を、『河上肇全集』全三十六巻への道案内という役割りをもはたしうるものとして編んだ」と述べている。36巻もある全集を読みとおすこともないだろう私にとっては、河上肇の思索の歩みを概観できるこの評論集はありがたい。
これから何回かに分けて、『河上肇評論集』、『貧乏物語』、『自叙伝』から、私が立止まり考えたところ、学んだところを取り上げ、読書ノートのようなものを少し書きとめておきたい。
河上肇は、1911年(明治44年、日本による韓国併合=朝鮮の植民地化の翌年である)、「日本独特の国家主義」という社会評論を発表している(『河上肇評論集』所収)。
その冒頭部分で、河上は、「余の見る所ー感ずる所によれば、わが日本人の思想は明治四十年代を一期として全くその方向を転化したるものの如し」とし、日露戦争(1904-05年、明治37‐38年)の勝利が、「日本人の思想」の「方向を転化」させたと指摘する。
この河上の認識は、ちょうど同じ年(1911年)、夏目漱石が、講演「現代日本の開化」で「(日露)戦争以後一等国になったんだという高慢な声は随所に聞くようである。なかなか気楽な見方をすれば出来るものだと思います」と語った、その認識と、驚くくらいに共通している。
河上は次のように言う。
(日清戦争での日本の勝利は同じ東洋人に対する勝利であったが、日露戦争で戦った相手のロシア人は西洋人であった)「この西洋人に勝ちたりという一事は、実に甚しくわが国民の自負心…日本人としての自負心を強めたり。……わが日本人は、他の東洋諸国にもなくまた西洋諸国にもなき何らかの偉大の特徴を有し居るに相違なしとするの思想、勃然としてわが日本人の間に惹き起さるるに至りたり。」
そういう意味で、日露戦争の勝利は、「文明開化」の時代にあった、文明=西洋へのコンプレックス(西洋崇拝)に対する反動であり、したがって国粋主義、今風に言えば自国中心主義の「復古的言説と運動」が開始されていく画期であった。そして、学者たちの研究も、その時代風潮に流され、「日本民族性の研究ということとなり……甚しきは日本民族の特徴を高調して、あたかも現代の日本を謳歌するものなるかに見ゆるものあ」るような状況になった。
河上は、こうした日本の思想状況について、「思想上の今の時代は最も大切なると同時に最も危険なる時代に属することを知るに足るべし」と、警鐘を鳴らした。それが、河上肇に、「日本独特の国家主義」を執筆させる動機となったのである。
(つづく)
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