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「空の青さがほんとうにわかれば…」 戦争と「弔い」と(6)

(前回のつづき) ここまで、太平洋戦線の激戦地を回る「慰霊ツアー」のなかで、参加者たちの慰霊の仕方に見られる、差異が意味していることについて、赤松と彦坂の対話をとおして考えてきた。 では、赤松は、彼にとってのツアー目的地であるガ島に上陸し、そこで何を確かめたのだろうか。ガ島に向う船中で、赤松は彦坂に次のように語っている。   「上陸時の(米空軍機との)戦闘ではね、波が少しあって、そして、海の色は、もう真っ青! …ブルーですよ。…(夕方になると)海もあかるなるってるし、兵隊の顔もみんな染まっている、その色に。…空の色やら水の色なんかは、ほんとうに、もう、ぼくだけのものなんだなあ…。戦記を書く人も、その戦闘を記録する人も、そういうことは…(書かないんだ)。」 「そのときの空の色や水の色と関係のない戦争とね、そういうものと結びついて離れない戦争とね、同じ戦争といっても、二つの戦争が考えられるねえ。 …つまり個人的戦争にはね、空の色も水の色もね、入ってんですね。…その個人にとっての戦争を代表する人たちっていうのはね、(軍隊の)一番下の人たちで、…だんだん階級が上がっていくとね、…もうかけらのないわけよ、個人的戦争の色彩は。」   慰霊ツアーの船がガ島に着き、下船した赤松は、慰霊団とは別行動をとり、彦坂とともにかつての上陸地点へまっすぐに向かった。 「42年前、餓死寸前の身体をただ気力だけでもたせながら、迎えの駆逐艦が来てくれるはずの海岸を目ざして這って通った、その草原」も、「飢えと渇きと、とめどのない下痢と高熱に悩まされながら、一粒のコメももらわずに過ごしたあの密林」も、かつてのようにはなかった。40余年の年月が流れていた。赤松は、そこでとくに慰霊的な行為、たとえば日本から持ってきた酒とかタバコとかを供えるようなことをしたわけではない。すっかり姿を変えたそれらの場所を歩き回ったあと、草原にごろりと横たわった。たぶん、衰弱し身動き一つできず密林の中で横たわっていた、あの時の姿勢のように。のちに、再訪したその場で赤松が思ったことを彦坂に次のように語っている。 「 …あそこで(上陸地点を再訪することで)ぼくが直面したのはね、(あの)世界で生きることはもう不可能だということやったんや。その世界はもうないけど、ぼくは生きていかんならんということやったんや。その思いを、あの(真っ青な)

「おれは殺されたんだ」 戦争と「弔い」と(5)

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(前回のつづき) 船上でおこなわれた慰霊式で、 「わたし」の言葉で亡き夫に向って語りかけた女性 がいた。その女性も「自他の認識ができていない」と、赤松が言うのはどういうことだろう。 赤松は、 Aの追悼についてそれ以上、直接語っていないが、慰霊ツアーの船がガダルカナル島に近づきつつあった頃、赤松は彦坂に次のような話をしている。   「世の中がね、学校へ行けば学校が、社会へ出たら社会が、軍隊入れば軍隊が、とにかく、ぼくをね、ようやらそうとする(これこれしなさいと命ずる)わけや。 …おれを動かそうとしているなちゅうことに気づいてきたわけやねえ。…そうすると、何が動いたるもんか!…と反抗的になるわけだ」。(イ)   「おれがガ島で死んだとしたら、あのとき(ガ島戦当時)の自分だったら、おれは殺されたんじゃない、死んだんだっていう傲岸さ、あったけどね。 …いまではもう、それはよう言わんわなあ、殺されたんだと。無念、残念やけど、おれは殺されたんだと。権力のほうが強くておれ個人のほうが弱かったんだ、と。…あのときは、よう認めん。それは、自尊心のなせるわざだわ。」(ロ)   (イ)にあるように、赤松はずっと「わたし」(個)を強く意識し、それを保持しようとしてきた人だった。意志的に、でもあったろうが、それ以前に身体がそう反応してしまう人のようだ。きっと「 制服 」が苦手な人だったのだろう。それで、協調性がないと注意されたり、「変な奴や」と異端視もされてきただろう。「優等生文化」の日本(*)では、彼は「劣等生」だった。しかし、その身構えは、戦争のなかでも、限界はあるものの、貫かれていた。それが(ロ)にある「おれは、殺されたんじゃない、死んだんだ」 …つまり、「わたし」が選択した結果として、迫りくる死(餓死)を待っていたんたと、思い込みたかった。しかし、その後(戦後)、そういう考えが「傲岸」なそれであったと気づいた。「権力のほうが強くて、おれ個人のほうが弱かったんだ」という、自分を死に追いつめた、自分を殺そうとした 「構造」のほうにも目が向けられた。 こう理解すれば、夫への思いを真っ直ぐ吐露した Aに対して、それでも赤松が「自他を十分見ていない」と言うのは、Aの夫の死が、どういう死であったのか、その固有性と彼を死に至らしめた構造とを、Aはまだとことん見ていない、ということを言っているのでは

「あの歳で、赤い服着させろというひとはおらん」 戦争と「弔い」と(4)

(前回のつづき) 『餓島』の本には、前回記事の女性 Aさんとはまた別の、やはり夫の追悼のためにこのツアーに参加した大阪の婦人の話も出ている。「にっぽん丸」が東京港に到着する少し前、つまり「慰霊の旅」の終わりに、彦坂に対して、赤松がふと思い出したようにその婦人のことを語り出した(「」は引用)。 「(婦人はある慰霊式に際し仕切り役の役員に対して)赤い服も着さしてくれ、ちゅうわけや。短い新婚生活のなかで、いまは亡き夫から、その服は似合うね、って言われた服やった」から …。しかし、役員から、それは喪服としてふさわしくないからいかん、と言われた。その婦人はまた「慰霊のとき歌う歌は童謡を歌わしてくれというたら、(これもまた)却下されたそうや」。「あの歳で、童謡歌わせろの、赤い服着せろのというひとは、おらん。たいていのひとは、そういうダイナミズムを失うとる。だから、女のほうに、まだ力強さが残っとるわ。男どもは、(船の)サロンで酒飲んで、言うとる(クダ巻いている)だけやけどな」。   赤松さんの話の続きをさらに聞いてみよう。「追悼」ということの意味を考える手がかりがその話にはある。 「死んだ人は肉親やら恋人やらや。 …ともに生きていた、『ひとついのち』として生きとったわけや。…夫が戦死すれば、自分のいのちの半分が、海の底か、南方の密林のなかに行ってしまって、だから、もう半分のいのちに会いに行く」。これが追悼というものだろう。「その『ひとついのち』を具象化しているのは…精神的面から言うと愛し合って生きる、物質的な面から言うとおなじエモノを分け合って生活するとういうこと…(しかし)それが公的なものになっていくにつれ、儀式化するにつれ、弔う人びとを組織し、統制し、命令するという形になっていく。…死者を統制組織しようとしている。それを認めてはならない。それは、われわれ(弔う者)に対する統制だ」。   死者を統制することはまた生者を統制することだ、という指摘は、毎夏、政府がなぜ「全国戦没者追悼式」をおこなっているのかを考える際にも、見落としてはならない重要な視点だろう。そして、赤松の「柳に雪折れなし」の本領は、ここから、次のように発揮されていく。 この「慰問の旅」に参加した人の多くは、「靖国神社賛成のひとたちやからね。しかし、セレモニー賛成の人たちのなかにも、無数に、死者の統制に反対する、そ

「この尊い犠牲が永劫に燦然と輝くことを…」 戦争と「弔い」と(3)

(前回のつづき) 以下、『餓島』の読書メモを記しておきたい。 1984年11月の終わり、赤松清和と彦坂諦の二人は、 東京港から「にっぽん丸」に乗船し、「南太平洋慰霊の旅」という団体ツアーに参加することになった。赤松が、その時からおよそ40年前の1943年2月、餓死寸前の状況から「最後の撤収」によってガダルカナル島(以下、ガ島と略)から奇跡的に生還したのだった、そのガ島を再訪するのが赤松の目的だった。彦坂の著書『餓島』は、「慰霊の旅」の間に交わされた二人の対話を中心に構成されている。   出航日、二人が乗船地の東京港晴海埠頭に出向くと、そこには「戦友会」の男たちが「結団式」を仕切り、申し合わせたように旧海軍の略帽をかぶっていた。出航前には海上自衛隊の音楽隊が「海行かば」を奏で、慰霊式がおこなわれた。彦坂はそうした雰囲気に違和感を覚えたが、「赤松さん自身にとっては、そうしたことはみなどうでもいいことだったかもしれない。たいせつなのは自分がそこ(ガ島)に行くということ、そして、そこまで自分を運んでくれる手段が具体的に存在するということだったにちがいない」と思った(「餓島」)。本を読む限り、たしかに赤松はそういう人である。 ツアー名が「南太平洋慰霊の旅」とあるように、船は、いずれも激戦地の、サイパン島、ニューブリテン島(ラバウル)、ガ島、そして帰路にはグァム島に寄港し、参加者は上陸して慰霊碑を訪れ慰霊行事をおこなうことになっていた。 出航から二日目、船が硫黄島を通過する際に、船上で慰霊式がおこなわれた。船が島に近付くのに合わせ、海上自衛隊の哨戒機が船の頭上を飛ぶという「卓抜な演出」もあったという。慰霊式では、次のような対照的な「追悼の辞」が、遺族によって読み上げられた。   (夫を亡くした Aさん) 「 …四十年の月日は、今となりましては束の間のことでございます。そして私はひとりでいてあげてよかった、とつくづく思うこのごろでございます。あんなおそろしい島で無念に終えられたひとを、どう して忘れることができましょうか。でもまた、同じあの島で果てた黒人兵もいると聞きまして、やはり心が痛みます。もうけっして戦争をしてはなりません。どうぞあなたもこのことにお手を貸してくださいませ。 …故郷のイチョウ、桜、カエデなどの落ち葉をたくさん拾って参りました。心を込めて、硫黄島のあなたに、そ

「私は靖国神社にはいません…」 戦争と「弔い」と(2)

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「私は靖国神社にはゐませんから、遺族参拝の折には、お二人(両親のこと)でどこか静な山の温泉宿にでも行かれまして、過ぎて来られました幾山河を御心安らかに語り合つて下さい。いよいよ、さやうなら。」 これは、1944年7月、赤松清和(当時27歳)が三度目の召集令状を受けとった際、両親宛てに書き残した「遺書」の一節である。赤松は、「餓島」とも言われたガダルカナル戦の生還者のひとりで、除隊後、また召集されたのである(餓島の生還者まで、ふたたび戦場に駆り出すとは!)。作家の彦坂諦(ひこさか・たい)が、赤松と1980年代に重ねた対話を軸として、とくに「戦争と人間と日本社会」を深く見つめ考えた本の一冊で、この遺書が紹介されている。赤松との「共著」ともいえる彦坂の本は、『ひとはどのようにして兵となるか』(上・下、1984年)、『兵はどのようにして殺されるのか』(上・下、1987年)、『餓島 1984-1942』(1987年)である。 (もしお近くの図書館においてあるようであれば、一度、手に取ってみてはいかがでしょう。) 私の知人に赤松(敬称、略)の縁者のかたがいて、ずいぶんと前に、『餓島』以外の本を贈ってもらったのだった(そのときはじめて作家・彦坂を知った)。仕事をしている時期にはなかなか全体を読み通すことはできなかった。しかし、退職後は、「残された時間」という思いはあるものの、時間はたっぷりある。それで、昨年あたりから手元にある本をあれこれ読み直しているが、そのうちのひとつとして、今回、彦坂の本を取り出してみたのだった。 赤松は、1917年、大阪、泉州(現和泉市)生まれ、2002年に85歳で亡くなった。私の父とほぼ同じ時代を生きたかたである。何といっても、上のような「遺書」を書いた人だから、同じ大学出といっても(赤松は歴史学専攻)、前回紹介した板野の「市民的な良識」とも、また、読むのもつらい戦争末期の学徒兵たちの「絶筆」とも異なる。戦時にあっても、柳の枝のような、やわらかくて強い思考がこの人の魅力としてある。その時代を、まさに「柳に雪折れなし」で生きた人だ。そして、その思想を彦坂がつかず離れずの距離でうまく引き出している。本をいただいてから30年後、読み通し、また『餓島』は図書館で借りて読んでみた。赤松と彦坂の対話から学んだことを何回かに分けて紹介してみたい。   ところで、赤松の

「敵前に伏せて春知る菫哉」 戦争と「弔い」と(1)

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ここひと月ほど、日本のしたアジア太平洋戦争に関する本、と言っても「戦史」ではなく、「兵士の視点」で書かれた本、もしくはその視点から戦争と人間、さらには日本社会をかえりみている本を何冊か読んでいた。それらの本を読みながら、立止まった部分、考えたこと、などについて、読書メモを残しておきたい。 初回(今回)は、板野厚平『蝶と花 ある戦死者の言葉』(1940年)を取り上げる。上に書いたように最近読んだ本のどれかで板野の本の紹介があった(耄碌が進み、思い出せない)。本のサブタイトルに「ある戦死者の言葉」とある。日中戦争の始まった直後の1937年10月から38年4月にかけて従軍し、戦死した板野の日記(メモ)を、そのなかにある俳句、スケッチとともに遺族がまとめ刊行したものである。こういう種類の本を読むのは初めてのことだ。地元の図書館で借りたが、受入れ登録日は「昭和16(1941)年7月8日」となっている。その当時、この本を手にした人たちはどのような思いをもって読んだのだろうか、そんなことをふと思った。   さて、本の冒頭に、作家・阿部知二の一文が掲載されている。出版社から、板野と同郷(岡山県)であるということで、阿部に「感想文」(推薦文?)の依頼があったとのことだ。その一部を引くと … 「(板野は)大学を出て故郷に帰り、よき市民となり、善良な夫、慈愛にみちた父となった人、俳諧を愛し絵を嗜みテニスを好んだ人、ーー快活で明るい、教養の広いよき意味のディレッタントであったひとりの青年紳士を、我々はこの書の中から想像に描き出す。 ……  敵前に伏せて春知る菫(すみれ)哉  これが激戦のさなかの句であることを知るときに、この勇士の心が春の心そのもののようであったことに打たれる。 ……読むほどのものは、よき市民でありよき戦士であった故人にあらためて愛惜の心を抱かずには居られぬだろう。」(旧仮名は新仮名に変えた、以下同じ)   『蝶と花』に収録された板野の断想(日記)を少し紹介してみる。 たとえば、家族への思い … 「母と妻からの手紙 温い言葉に胸をうたれ嬉しくてチョッキのポケットに入れて寝る。  強(板野の息子)が可愛いと母の手紙にあった 最上の楽しい言葉」 あるいは、中国の子どもたちとの「交流」 … 「支那人(中国人)の子供を沢山連れて来て、衛兵所で話す 你的心好(ニーデンシンハオ)と云い