「おれは殺されたんだ」 戦争と「弔い」と(5)

(前回のつづき)

船上でおこなわれた慰霊式で、「わたし」の言葉で亡き夫に向って語りかけた女性がいた。その女性も「自他の認識ができていない」と、赤松が言うのはどういうことだろう。

赤松は、Aの追悼についてそれ以上、直接語っていないが、慰霊ツアーの船がガダルカナル島に近づきつつあった頃、赤松は彦坂に次のような話をしている。

 

「世の中がね、学校へ行けば学校が、社会へ出たら社会が、軍隊入れば軍隊が、とにかく、ぼくをね、ようやらそうとする(これこれしなさいと命ずる)わけや。…おれを動かそうとしているなちゅうことに気づいてきたわけやねえ。…そうすると、何が動いたるもんか!…と反抗的になるわけだ」。(イ)

 

「おれがガ島で死んだとしたら、あのとき(ガ島戦当時)の自分だったら、おれは殺されたんじゃない、死んだんだっていう傲岸さ、あったけどね。…いまではもう、それはよう言わんわなあ、殺されたんだと。無念、残念やけど、おれは殺されたんだと。権力のほうが強くておれ個人のほうが弱かったんだ、と。…あのときは、よう認めん。それは、自尊心のなせるわざだわ。」(ロ)

 

(イ)にあるように、赤松はずっと「わたし」(個)を強く意識し、それを保持しようとしてきた人だった。意志的に、でもあったろうが、それ以前に身体がそう反応してしまう人のようだ。きっと「制服」が苦手な人だったのだろう。それで、協調性がないと注意されたり、「変な奴や」と異端視もされてきただろう。「優等生文化」の日本(*)では、彼は「劣等生」だった。しかし、その身構えは、戦争のなかでも、限界はあるものの、貫かれていた。それが(ロ)にある「おれは、殺されたんじゃない、死んだんだ」…つまり、「わたし」が選択した結果として、迫りくる死(餓死)を待っていたんたと、思い込みたかった。しかし、その後(戦後)、そういう考えが「傲岸」なそれであったと気づいた。「権力のほうが強くて、おれ個人のほうが弱かったんだ」という、自分を死に追いつめた、自分を殺そうとした「構造」のほうにも目が向けられた。

こう理解すれば、夫への思いを真っ直ぐ吐露したAに対して、それでも赤松が「自他を十分見ていない」と言うのは、Aの夫の死が、どういう死であったのか、その固有性と彼を死に至らしめた構造とを、Aはまだとことん見ていない、ということを言っているのではないだろうか。赤松は、かつての自分(「おれは死んだんだ」という認識)を、Aの追悼の言葉にも見たのである。私は、そう思った。さらに、板野厚平の日記をまとめた遺族(妹)の言葉も、全体として穏やかなものであり、板野の死に過剰な意味づけをしようとする意図はまったく感じられない。その意味で、板野の本を編集した遺族たちの延長に、夫を追悼するAの言葉もあるように思える。それでも、板野にも、Aの夫にも、そして彼らの遺族にも、「見えていなかったこと」はある、残されている。赤松は、ガ島から生還したみずからをかえりみて、揺れ動く心、すなわち他者による死の統制から直感的にこぼれていく、精神の「ダイナミズム」を抱えたAや板野の遺族に、「問題はそこで終わったんじゃなく、その先にもあるのではないだろうか」と、自分に言い聞かせるように、呼びかけている。その直感の先に歩を進めてみたらと語りかけている。

兵士に自殺的な突撃を強い、あるいは兵士を(結果としてであれ)飢餓に追いつめるような作戦を強いた、端的にいえば、兵士たちを「殺した者」(東京の御前会議や大本営のお歴々)がいるということだ(*)。だから、「殺された者」の場所から、立ち上がってくる言葉に耳を傾けねばならない。兵士の「無念」とは、「死んだこと自体」に尽きるものではない。また、「意味づけられた死」のそれでもない。その「死に方」「死にぎわ」の「無念さ」…その死の固有性(置き換え不能性)と構造とにある。赤松は、みずからが身を置いた、そういう「兵士が殺された場所」で思考している。それが、弔う人自身の、自他に対する認識を深めることにつながる、と言っているのではないか。

どうだろうか?

(*)兵士たちを「殺した者」…加藤周一は、親友中西の戦死について、満腔の怒りを込めて、「遂に彼(中西)をだますことのできなかった権力が、物理的な力で彼を死地に強制したのである」と書いた。言葉をかえれば、中西は「彼を死地に強制した」者=「権力」によって「殺された」のだ。「仕方のなかった/どうにもならなかった死」という認識の先へと、私たちも認識を研いでいかなければならない。加藤も、赤松も、同じようなことについて、ずっと悩み考えてきたんだなあと思った。それを悩み考え続けることこそが、「友」であることの証なのだ。

(つづく)



 (↑ 赤松さんは、敗退し孤立した部隊に、日本から軍需物資をガ島に輸送する徴用船団の一隻、「九州丸」に乗り組んだ(もと大阪商船所属の、ニユーヨーク航路の美しい貨物船だ)。船首に据え付けられた高射砲(上の写真に見える)の射手であった。物資を陸揚げするため、ガ島の海岸に乗り上げた(わざと擱座させる、二度と日本には帰れない)。ただちに米軍の航空部隊との交戦が始まったが、被弾し大破する。命拾いをした赤松さんは島に上陸しだが、そこは「飢餓地獄」であった。上の写真は、「九州丸」の残骸。その後、傷みが進み、もはや原形はとどめていないらしい。)

なお、ガダルカナル戦については、五味川純平『ガダルカナル』ほかがあるが、NHKの「戦争証言アーカイブス」に数編の番組や元兵士たちの多数の証言記録が公開されている。お時間のないかたは、のリンクで出てくる番組「ガダルカナル 繰り返された白兵突撃」の、後半、チャプター7から9だけでもご覧になってみてはいかがでしょう。元兵士たちの証言が重く響いてきます。赤松さんたちのおかれていた状況を想像するよすがとなりました。


 

(つづく)


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