見えない「制服」  加藤周一ノート(6)

加藤は「軍国主義に批判的であった」わけを次のように言う。

「制服、号令、七五調の標語(たとえば「欲しがりません、勝つまでは」など)、粗野な態度と不正確な言語、他人の私生活への干渉、英雄崇拝と豪傑笑い、「日本人」意識……私がそれらのものを嫌ったのは、軍国主義に批判的であったからではない。あらかじめそれらのものを嫌っていたから、私は軍国主義にも批判的になったのである。……制服を着て隊伍を組んで歩きながら、漠然とした雰囲気に陶酔するという考えは、私にははき気を催させたし、酒を飲んであぐらをかき、意味もないのに太い声で高笑いをしながら、「男でござる」だの「腹芸」だのということは、ばかばかしくて堪え難かった。私が軍国主義的な周囲に反感をもったのは、大きな理想ということよりも、そういう雰囲気の押しつけがましさに反発したからである。」(加藤周一)

 軍隊のパレードというものがある。政治権力者、軍人たちが居並ぶひな壇に向って敬礼して行進する。その一糸乱れぬ行進に「統一美」を感じる人もいるかもしれない。しかし、私は「皆の足並みがぴたっと揃っていること」自体に気持ち悪さ感じてしまう。ひとり一人(の歩み)がそこにいる(ある)はずなのに、それを消し去ってしまうのが「制服」の思想だ。戦場でいったん敵と対峙して戦う時、個々人の名前は不要となる。敵の前に同じ制服を着た「かたまり」(一人=全体)として登場する。名前をもった一人の兵士と、また同じく名前をもった一人の敵兵とが戦場で殺し合いをするのではない。相手の名前を知ってから殺すのはどちらの側にも耐えられないことだろう。それが戦争の「作法」であり、それが「制服」の思想である。そして、もっと恐ろしいのは、制服を着ていないのに、「制服」の思想を身にまとうことである。加藤周一が述べていることは、この「見えない制服」の思想のことではないか。それは、戦時か平時かを問わない。

 

「『国民精神総動員』は、都会では、成功していた。小学生は往来の若い女たちに向って、『パーマネントはよしましょう』と唱い、大学に劣等感をもつ男たちは、電車のなかで、外国語教科書を読んでいる大学生をみつけると、『この非常時に敵性語を読んでいる者がある、それでも日本人か』と大声で叫んだ。」(加藤周一)

 「他人の私生活への干渉」をこうして「正義」の顔をしておこなっていた小学生も男たちも、みな「見えない制服」を身にまとっていたのである。新型コロナの流行下、ウィルス以上に怖かったのは、やはりこの「見えない制服」であった。人は社会的存在でもあるから、たえずあれこれの「制服」を着替えながら、日々を送るのだろう。だから問題は、「制服」を脱ぐことよりも、自分が「制服」をまとっているということを自覚できているかどうか、だろう。

そう言えば、こんなことがあった。50年前の学生の頃、反権力をかかげるある労働者学生組織のメンバーがみな、突然、軍隊調のカーキ色の戦闘服を来て分列行進や街頭演説を始めるようになったことがある。それが「軍隊ごっこ」のように滑稽に見えたので、その中にいた顔見知りに近づいて「お前、その恰好、どうにかならんのか」と話しかけた。しかし、彼は表情ひとつ変えず、仲間と一緒に「一つ」のスローガンを復唱するばかりだった。「これじゃあ、お前たちがたたかっている相手と同じじゃないか」と言いかけて、その言葉は飲み込んだ。彼は、あの「制服」を着た自分について、そのあとどう考えたのだろうか。そして私は、「見えない制服」を着ているかもしれない自分を日々どれくらい自覚できているのだろうか>

(つづく)

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