「友である」ということ 加藤周一ノート(9)
(「加藤周一ノート」最終回です。)
加藤周一は、一高時代の文学仲間と、医学部進学後も(1939年~)交流し、文学作品をともに読んだり創作したりし続けていたという。のちに作家となる福永武彦や中村真一郎のほかにも何人かの仲間がいたが、「私の友人は一人また一人と去り、誰もがいくさが終るまで帰ってこなかった」。そのなかに、法学部に進んだ「中西」という友人がいた。「高等学校(旧制)の学生であった頃、中西は一文を草して時勢を諷したことがある。私はそれを学生新聞に掲載しようとした。校正刷を見た文芸部長(たぶん指導教官であろう)は私をよびつけて、しかじかの『不穏当な箇所』を削除するように、といった、『こんなものを出したら、憲兵が来ますよ、私には責任がもてない』」。しかし、中西はその削除要請には応じず、次号の学生新聞に別の文章を「空又覚造」というペンネームで載せたのである。「空又覚造」は「そら、また書くぞ!」の洒落であろう。そういう骨のある青年が中西だった。
その中西にも召集令状がきた。ふつう大学卒なら「幹部候補生」の道を選ぶが、彼は幹部候補生を志願しなかった。おそらく軍隊に入っても「エリート」の道を進むのをみずからに禁じていたのだろう。「やがて、輸送船に乗せられて南方へ送られるらしい、という報らせを最後として、その後の通信は絶えた。……中西はふたたび還らなかった」(加藤周一)。その親友中西の死について、加藤は次のように書く。
「生きることを願っていたのは、むろん中西だけではなかった。しかし中西は私の友人であった。一人の友人の生命にくらべれば、太平洋の島の全部に何の価値があるだろうか。私は油の浮いた南の海を見た。彼の眼が最後に見たでもあろう青い空と太陽を想像した。……愛したかもしれない女、やりとげたかったかもしれない仕事、読んだかもしれない詩句、聞いたかもしれない音楽……彼はまだ生きはじめたばかりで、もっと生きようと願っていたのだ。みずから進んで死地に赴いたのでも、『だまされて』死を択んだのでさえもない。遂に彼をだますことのできなかった権力が、物理的な力で彼を死地に強制したのである。私は中西の死を知ったとき、しばらく茫然としていたが、我にかえると、悲しみではなくて、抑え難い怒りを感じた。太平洋戦争のすべてを許しても、中西の死を許すことはないだろうと思う。それはとりかえしのつかない罪であり、罪は償われなければならない。」(加藤周一)
私は、加藤周一『羊の歌』を何となく読み直していただけだったのだが、この一節にあらために対面したとき、このノートを自分に向けて書きとめておこうと思ったのだった。だから、この「加藤周一ノート」は、「中西」に触れたこの回で終わる。加藤は、この一節につづけて、次のように書いている。
「しかしその後時が経つにつれて、私にはもう一つの考えも、しきりにつきまとう様になった。それは、私が生きのこり、中西が死んだということに、何ら正当な理由もありえないという考えである。……九死に一生を得て、彼が還っていたら、彼自身を死地に追いこんだものに対して、中西はどういう態度をとったであろうか。私でなくて彼が生きのびていたら、彼は何をすることを願ったであろうか。『天に代りて不義を打つ』という言葉は、無意味にちがいない。……しかし友人の切望は察することができるかもしれないし、代ってそれを実行する資格ーーはないかもしれないが、漠然としてしかし激しい誘いはあるだろう。私はその後、みずから退いて、羊のようにおとなしい沈黙をまもろうと考えたときに、実にしばしば中西を思い出したのである。」(加藤周一)
私(たち)は、「平和」な時代を生きてきた。それでも「見える制服」にも「見えない制服」にも取り囲まれ、ときには物理的に、ときには精神的に、理よりも力で、数で追いつめられるようなこともあった。そういうきびしいところをさらに突き進もうとして、さまざまな「制服」という壁の前に、仆れ、あるいは立ちゆかなくなった友もいた。すこし年長だったAとB、そして同級生のC、の死。みんな20代前半だった。
Aは聡明かつ包容力があって皆から慕われていた。Bは、理屈は言わないが一途で正直な人だった。苦労人の同級生Cは、それだけに同級のなかでは大人びていた。入学してすぐ、私にとっては「兄(ヒョン)」のような存在になった。三人はそれぞれ、死に方も死んだ時期もちがったが、今も彼らのことを忘れることはない。
加藤が「私はその後、みずから退いて、羊のようにおとなしい沈黙をまもろうと考えたときに、実にしばしば中西を思い出したのである」と書いていることは、心底わかる。
私は、ひ弱い人間である。「みずから退いて、羊のようにおとなしい沈黙をまもろう」とすることなど日常茶飯のことだ。「五十歩百歩」という言葉を引いて、「それでも五十歩の差は消えない」と言ったのは、作家の野坂昭如だった。野坂は、そうみずからに言い聞かせて、戦争後も、「逃げすぎた五十歩」をたえずみずからに問い続けたのだ。それが、「火垂るの墓」になったのだろう。私なんか百歩逃げるどころか、道そのものからも外れてしまったことも多くあった。そんなとき、「私が生きのこり、AやBやCが死んだということに、何ら正当な理由もありえないという考え」が頭をもたげてくるのだ。私が道を逸れた(逸れかかった)その場所に、彼らが立っている。私を咎める口ぶりではけっしてなく、静かに語りかけてくるのだ。「これ以上外れると、そこはもうお前の生きたいと思う道じゃないだろう?」と。その彼らのおかげでここまで、何とか片足だけでも道にのせて歩いて来れたんだと思う。「彼らの分まで生きる」……とんでもないことである。
『羊の歌』をまた読み返す機会が私にどれくらいあるかわからないが、とにかく加藤周一のこの本には感謝したい。たとえ弱い「羊」であっても(いや、であればこそ)、羊なりに「自分の歌」をうたい続けることを忘れてはいけない。加藤からそういう励ましをもらった思いだ。
脈絡もなく、「ゴンドラの唄」とともに次の映画が思い出された。
お互い放浪中のロサンゼルスで出会って、いろんな話を交わし、そしてそこで別れたWくん。ふたりとも20代後半だった。店は別々だったが、調理師免許をもつキミはコックで、技能なしのボクは皿を洗っていた。店が休みの日、安宿でバドワイザーを飲みながら、キミが映画『生きる』(1952年)の最後の「ブランコ」の場面について熱く語ってくれたことはいまもよく覚えている。今なら、あれからすこしはものも考えたから、あの映画の多義性についてもっと話せると思う。40数年のあいだ音信も途絶えたまま、きっとこの先会うこともないだろうけど、こんなふうにふっと思い出すことはある。キミが故郷の北海道に戻って、いやほかのどこであっても、元気に暮らしていることを祈っている。
(おわり)
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