「私は靖国神社にはいません…」 戦争と「弔い」と(2)

「私は靖国神社にはゐませんから、遺族参拝の折には、お二人(両親のこと)でどこか静な山の温泉宿にでも行かれまして、過ぎて来られました幾山河を御心安らかに語り合つて下さい。いよいよ、さやうなら。」

これは、1944年7月、赤松清和(当時27歳)が三度目の召集令状を受けとった際、両親宛てに書き残した「遺書」の一節である。赤松は、「餓島」とも言われたガダルカナル戦の生還者のひとりで、除隊後、また召集されたのである(餓島の生還者まで、ふたたび戦場に駆り出すとは!)。作家の彦坂諦(ひこさか・たい)が、赤松と1980年代に重ねた対話を軸として、とくに「戦争と人間と日本社会」を深く見つめ考えた本の一冊で、この遺書が紹介されている。赤松との「共著」ともいえる彦坂の本は、『ひとはどのようにして兵となるか』(上・下、1984年)、『兵はどのようにして殺されるのか』(上・下、1987年)、『餓島 1984-1942』(1987年)である。

(もしお近くの図書館においてあるようであれば、一度、手に取ってみてはいかがでしょう。)

私の知人に赤松(敬称、略)の縁者のかたがいて、ずいぶんと前に、『餓島』以外の本を贈ってもらったのだった(そのときはじめて作家・彦坂を知った)。仕事をしている時期にはなかなか全体を読み通すことはできなかった。しかし、退職後は、「残された時間」という思いはあるものの、時間はたっぷりある。それで、昨年あたりから手元にある本をあれこれ読み直しているが、そのうちのひとつとして、今回、彦坂の本を取り出してみたのだった。

赤松は、1917年、大阪、泉州(現和泉市)生まれ、2002年に85歳で亡くなった。私の父とほぼ同じ時代を生きたかたである。何といっても、上のような「遺書」を書いた人だから、同じ大学出といっても(赤松は歴史学専攻)、前回紹介した板野の「市民的な良識」とも、また、読むのもつらい戦争末期の学徒兵たちの「絶筆」とも異なる。戦時にあっても、柳の枝のような、やわらかくて強い思考がこの人の魅力としてある。その時代を、まさに「柳に雪折れなし」で生きた人だ。そして、その思想を彦坂がつかず離れずの距離でうまく引き出している。本をいただいてから30年後、読み通し、また『餓島』は図書館で借りて読んでみた。赤松と彦坂の対話から学んだことを何回かに分けて紹介してみたい。

 

ところで、赤松の「遺書」は、彦坂の『餓島 1984-1942』の「あとがき」で紹介されている。彦坂は遺書を書いた際の赤松の「決意」について、「(その)決意は、たとえみずからの死をみずからの手に奪回することはなしえないにせよ、せめて、みずからの死に他人が付与するであろう意味だけはあらかじめ拒否しておきたいという願望のやや屈折した表現であったのかもしれない」とし、そのうえで、戦争末期、「人間魚雷回天」の乗員だった神津さんというかたの新聞投稿(1980年)を引いている。同じく「靖国」の話にかかわるので、孫引きしておく。

「『靖国神社でまた会おう』というのは、あのころの私たちの合言葉だった。それを口にしながら特攻隊員たちは、次から次へと出撃していった」。しかし、8月15日を境に、「先にいった者と遅れた者との差は、無限に開いてしまった。死んだ者は二度とかえってこない。この日から、あの合言葉は、生き残った者に重くのしかかってきた。…それ以来(敗戦後)、私たち残された者は、折にふれて靖国神社にゆき、死んだ仲間と話をかわしてきた。」

……

「しかし最近になって、この考えが、ただの幻想にすぎなかったことを、思い知らされることになった。宗教法人としての靖国神社は、あの大戦を引き起こした責任者たちを、祭神として靖国神社に祭るという挙にでたのである。私たちにあの戦犯を神としておがめというのだ。」

……

「靖国神社に行くと次のようなパンフレットがある。『日本民族がその総力を挙げ、自衛とアジアの平和のために戦った大東亜戦争が、戦い利あらずして矛を収めてから、はや三十五周年を迎えます…』

…この文のどこに、あの大戦を引き起こし、多くの民を死なせたことへの反省があるのか。…これを知ってみれば、私たちの仲間が靖国神社にいるはずはないではないか。だから私は、もう二度と靖国神社には参拝しない。」(1980年8月16日、朝日新聞「論壇」)

 

赤松の遺書(1944年)について、彦坂が「みずからの死に他人が付与するであろう意味だけはあらかじめ拒否しておきたい」と書いたことと、上の神津の考え(1980年)は同じではないが重なるところがある。それは、「生者が死者を利用すること」は、その死者を二度殺す行為なのだということだろう。神津の投稿からさらに40年。赤松の、そして神津の、「死者をして語らしめよ」の声はいよいよ遠く、「生者による、生者のための〈慰霊〉」の声だけがいよいよかまびすしい。

以下、「戦争と『弔い』」をめぐって、しばらく考えていきたい。

 

* 神津直次は『人間魚雷回天』(1989年)を書いている。図書館で借りて読んでみようと思う。

(つづく)



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