「あの歳で、赤い服着させろというひとはおらん」 戦争と「弔い」と(4)
(前回のつづき)
『餓島』の本には、前回記事の女性Aさんとはまた別の、やはり夫の追悼のためにこのツアーに参加した大阪の婦人の話も出ている。「にっぽん丸」が東京港に到着する少し前、つまり「慰霊の旅」の終わりに、彦坂に対して、赤松がふと思い出したようにその婦人のことを語り出した(「」は引用)。
「(婦人はある慰霊式に際し仕切り役の役員に対して)赤い服も着さしてくれ、ちゅうわけや。短い新婚生活のなかで、いまは亡き夫から、その服は似合うね、って言われた服やった」から…。しかし、役員から、それは喪服としてふさわしくないからいかん、と言われた。その婦人はまた「慰霊のとき歌う歌は童謡を歌わしてくれというたら、(これもまた)却下されたそうや」。「あの歳で、童謡歌わせろの、赤い服着せろのというひとは、おらん。たいていのひとは、そういうダイナミズムを失うとる。だから、女のほうに、まだ力強さが残っとるわ。男どもは、(船の)サロンで酒飲んで、言うとる(クダ巻いている)だけやけどな」。
赤松さんの話の続きをさらに聞いてみよう。「追悼」ということの意味を考える手がかりがその話にはある。
「死んだ人は肉親やら恋人やらや。…ともに生きていた、『ひとついのち』として生きとったわけや。…夫が戦死すれば、自分のいのちの半分が、海の底か、南方の密林のなかに行ってしまって、だから、もう半分のいのちに会いに行く」。これが追悼というものだろう。「その『ひとついのち』を具象化しているのは…精神的面から言うと愛し合って生きる、物質的な面から言うとおなじエモノを分け合って生活するとういうこと…(しかし)それが公的なものになっていくにつれ、儀式化するにつれ、弔う人びとを組織し、統制し、命令するという形になっていく。…死者を統制組織しようとしている。それを認めてはならない。それは、われわれ(弔う者)に対する統制だ」。
死者を統制することはまた生者を統制することだ、という指摘は、毎夏、政府がなぜ「全国戦没者追悼式」をおこなっているのかを考える際にも、見落としてはならない重要な視点だろう。そして、赤松の「柳に雪折れなし」の本領は、ここから、次のように発揮されていく。
この「慰問の旅」に参加した人の多くは、「靖国神社賛成のひとたちやからね。しかし、セレモニー賛成の人たちのなかにも、無数に、死者の統制に反対する、それを許さない、怒りや訴えやらを、(今回の船旅で)ぼくは見た。これが二〇日間(の船旅で)のぼくの収穫や。」
三回目の召集時に、「私は靖国神社にはいません…」と、両親あての遺書をしたためた赤松は、もちろん「靖国神社賛成のひと」ではない。しかし、かといって赤松は「反靖国論」(元人間魚雷回天の乗組員だった神津さんのように)を展開していくわけではないのだ。むしろ、「(戦没者慰霊)セレモニー賛成の人たち」のなかにうごめている(統制からこぼれる)、Aさんや大阪の婦人のような「死者の統制に反対する、それを許さない、怒りや訴えやら」に注目するのである。そして、赤松は、それを確認できたことが、「南太平洋慰霊の旅」に参加した「収穫」と言うのである。(それくらい、日本社会に対する赤松の絶望は深い、ということでもある。)
前回の記事で紹介した、二つの追悼の言葉…ひとつは、夫へ語りかけたAさんの「わたし」(個)としての言葉、もうひとつは、「わたし」が不特定人称に解消されているHさんの言葉。私はその記事で、Aの言葉(語り方)に共感し、Hの言葉(語り方)を問題視したが、赤松の見方は、私の、このような単純な二分法ではない。
その赤松の考えについて、彼の言葉(「」は引用)に私の理解を付け加えて書けば、次のようになるだろうか。
慰霊に向う船のなかには、A型のエネルギーとH型のエネルギーがあった。その「二つのエネルギーはね、たがいに、その、自分自身をも認識していないしね、自分と相手の関係(差異)も認識していない」。だから、Hら慰霊団役員が船上で発行している新聞に、Aのした追悼を「祭場寂とす、想夫の弔辞」というような見出しをつけて、記事にするのだ。しかし「(Hらが、ほんとうに)相手(A)を認識したら、そんなこと(想夫の念)を褒めずに…女々しい(ママ)とかね、不合理だとかね」、そんなふうに責めてくる。あんな記事に書かないだろう。しかし、Hらも、自分も相手も認識していないから、自分が気に入ったところを都合よく受けとめて、「けして戦争はしてはなりません」の部分は削って、亡くなった夫を生涯思い続けた女性というようなストーリーだけにして記事を書くのだ。自他を認識していないのはまた、夫を追悼するAにも言えることだ。Aが自分自身、そして相手(H)を深く認識したとしたら、もっと違った言葉や弔い方が出てくるだろう。この船には、みずからを意識化していない二つのエネルギーが同居している。「だからこそね、こういう慰霊祭っていうものが実現できるんですよ。意識したらね…こんな慰霊祭なんかやれませんよ。わたしはやっぱりひとりで弔いますっていうことになりますよ」。
では、赤松が、Aも「自他の認識ができていない」と言うのはどういうことだろう。(長くなったので、次回に回します。)
(つづく)
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